[1アマ試験に合格]

1958年、22歳になった松ヶ谷さんは、第1級アマチュア無線技士の国家試験を受験し合格した。受験の動機は14MHzに出たかったからだと言う。前年の1957年、南極昭和基地から、越冬隊員であった佐間敏夫(JA1JG)さんが14MHzに出てきた。松ヶ谷さんは、このJA1JGの受信に成功したものの、2アマ局であったため、14MHzで送信することができず、歯がゆい思いをしたからだ。

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1発で合格した第1級アマチュア無線技士の免許証

当時1回で1アマに受かるのは珍しく、ローカル局からびっくりされた。この当時の1アマの試験は非常に難しく、事実この時も東海地区では22人が受験したが、合格したのは松ヶ谷さんを含めて2人だけという結果だった。地方によっては合格者がゼロのところも多かったと言う。

当時の試験は、1次(無線工学、無線学)、2次(法規)、3次(電気通信術)とあった。特に3次試験の電気通信術で、和文の受信が難しかった。松ヶ谷さんは和文の通信術をマスターするのに、モールス符号が録音されていた(練習用の)78回転のレコードを買って毎日聞いた。また自作の短波ラジオを使い、新聞電報という通信を聞いて受信練習した。この通信は漁船などに向けてニュース(相撲の結果など)を配信していたもので、格好の練習台になったと言う。

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1959年当時のシャックと松ヶ谷さん

1アマ免許を取得した松ヶ谷さんは、2アマではオンエアできなかった、14、21、28MHz帯の各バンドでオンエアするようになった。当時の1アマ局の多くは14MHz帯を中心にオンエアしていたため、松ヶ谷さんは、21MHz帯と28MHz帯を好んでオンエアするようになった。このころ観測史上最大と言われているサンスポットサイクル19のピーク期であったことと、28MHzでオンエアしているJA局が少なかったため、JAはまるで珍局扱いで、コンディションの良いときに28MHz帯でCQを出すと世界から次々と呼ばれ、パイルアップになることが多かったと言う。

[非常通信を経験]

1959年2月中旬、ある寒い日の夕方、仕事を終えて帰宅後、いつものように28MHz帯をワッチしていたところ、フランスのF9IL局がCWで、非常通信符号である「OSO」を前置した「CQ JA」を発信しているのを受信した。何事だと思いすぐに応答すると、シグナルレポートも早々に、いきなり英語で依頼メッセージを送ってきた。1回目の受信では状況が掴めなかった松ヶ谷さんは、メッセージの再送を依頼した。

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F9ILのQSLカード

すると、「ポーランドのKRAKOWにいるSWEESYというドクターが、SEROTONINという薬を探している。日本にあれば赤十字経由で送ってほしい」と打ってきたのが分かった。「何の薬だ?」と聞くと、「癌の薬だ」と打ち返してきた。松ヶ谷さんは、「わかった、こちらで調べてみる」と伝え、翌日のスケジュールを組んでファイナルを送った。

その日の夜、運よくローカル局で医師である小西勝(故人・JA2VS)さんと50MHz帯AMでつながったため、事情を説明し調べてもらったが、「薬のリストにはない、新薬ではないか」との返事だった。翌朝、F9ILが「赤十字」と言っていたことを思い出し、出勤前に、小西さんの病院に立ち寄って、三重県の日赤に照会してもらった。すると、「SEROTONINとは日本ではまだ研究段階の新薬で、おそらくアメリカなら試供品があるらしい」とのことだった。

今度は、小西さんのシャックから、松ヶ谷さんが7MHz帯AMで、東京に向けてOSOを発信した。当時の7MHzはかなり混雑していたが、OSOを発信したらシーンとなり、非常通信のために皆が周波数を空けてくれたことを憶えている。応答してくれた東京のハムが、東京の日赤に連絡してくれた。当時、東京の日赤ビル内にはJARLの本部局であるJA1RLがあり、そのJA1RLが7MHz帯に出てきてくれた。すぐに事情を説明し、東京の日赤で調べてもらったら、「米国なら実用サンプルがあるだろう」、と言うことだった。

「よし、乗りかかった船だ、今度はアメリカだ」と思い、一旦、三重県庁内にあった教育委員会事務局に顔を出して、上司に断った後、通勤に使っていた自転車で自宅に飛んで帰り、28MHz帯AMで「CQ USA」を怒鳴った。すると、すぐにカリフォルニアに住むハムが応答してきた。たどたどしい英語で事情を説明すると、「よし分かった。協力する」と返事があった。と同時に、シャック内から、米国の赤十字に電話をする奥様の声がマイクを通して聞こえてきた。松ヶ谷さんは、「米国ではシャックに電話まであるのか」、と感心したことを憶えている。

カリフォルニアのハムは「OKだ。当地の赤十字から、ポーランドに直送しもらうことになった」と伝えてきた。これで、ポーランド−フランス−日本−アメリカとリレーされた非常通信は一件落着した。松ヶ谷さんは一安心して職場に向かった。しかし、職場に帰ってみると、事はまだ終わっていないことがすぐに分かった。

職場では、NHKの記者が松ヶ谷さんを待ちかまえていた。理由を聞くと、昨晩のJA2TY−JA2VSのQSOをたまたまワッチした、当時NHKに勤務していた五家肇(JA2CJ)さんから、非常通信の話を聞いた、詳しい話を聞かせて欲しい、とのことだった。松ヶ谷さんは仕方なしに、その記者に一部終始を話すと、その日のお昼のNHKニュースでその内容が流れた。すると午後には、新聞各紙の記者が松ヶ谷さんの職場に押しかけてきた。

詳細まで説明してなかった松ヶ谷さんの上司は、びっくりして「お前、何をやったんだ」と問いかけてきた。松ヶ谷さんは、改めて詳しい事情を説明し、職場の会議室を借りて、生まれて初めての記者会見を行うことになった。緊張した中での記者会見は何とか終わらせたものの、話はまだ終わらなかった。その日の勤務を終え、松ヶ谷さんが自宅に帰ると、自宅前の狭い道路には、新聞各社の取材車が列になって並んでいた。

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松ヶ谷さんの活躍を報じた2月15日付の朝日新聞

結局、その日の夕方のF9ILとのスケジュールQSOは、新聞各社のカメラマンのフラッシュの中で行うハメになったことを憶えている。当時はまだアマチュア無線自体が珍しいこともあり、各紙とも大々的に報道した。さすがにマスコミの威力はすごく、掲載から2、3日すると、全国各地から30通前後の手紙が届いた。そのほとんどは、「私もハムになりたい。どうやったらなれるのか」という内容のものだったと言う。さすがに全てに返事を書くことはできなかったが、1通だけは丁寧に返信したことを憶えている。それは、19歳の女性から届いた「私もハムになりたい」という手紙だった。