[公務員試験に合格]

松ヶ谷さんは、1アマをクリアすると、次は予定していた公務員試験に挑戦した。これは、職場(教育委員会事務局)の上司からの勧めでもあった。受験資格を得るために通った三重短大では、主に法律と経済を学んだ。その時、「学問のおもしろさにはじめて触れた。勉強というものは嫌々やるものではなく、奥が深いものだと感じ、ものすごく勉強した」と言う。公務員試験に先立ち、まずは在学中に社会の教員免許を取得した。その後短大を卒業し、公務員試験の資格を得た松ヶ谷さんは、国家公務員中級試験に合格する。

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1959年当時、松ヶ谷さんが使っていた3.5/7MHz用トップローディングアンテナ

公務員試験に合格した松ヶ谷さんは、1959年7月、名古屋市にあった大蔵省(現:財務省)東海財務局に転職した。その頃は、昼間、財務局で働きながら、次なる資格に向けての試験勉強を続けた。もちろん、無線活動も休止することなく続けていた。松ヶ谷さんが次に挑戦した資格は、司法試験と公認会計士試験だったが、これらはともに最難関の国家試験であり、仕事の片手間の勉強で合格できるほど容易ではなかった。

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1959年6月に更新したJA2TYの無線局免許状。当時の免許有効期間は3年間であった。

[QST誌に出会う]

松ヶ谷さんは、JA2TYを開局すると同時に地元のJARL三重クラブに入会した。クラブの会長は、かつて高校生だった松ヶ谷さんにアマチュア無線のことを色々と教えてくれた石田(JA2AH)さんだった。当時の三重クラブの会員数は約40名、「メンバーの技術レベルは高く、おかげで色々な知識を吸収できた」と話す。1959年、松ヶ谷さんは名古屋勤務になると、名古屋DXクラブにも入会した。こちらのクラブは、その名のとおりDX通信に主眼が置かれており、「DX局の情報交換など、クラブの連中とワイワイとやっていた」と当時を語る。さらに、同1959年には三重県在住のDX運用愛好家とともに「Mie DX Keyers」を結成し、松ヶ谷さんはその会長職に就いたため、当時は3つのクラブに所属していたことなる。

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Mie DX Keyersの会報(第1号)

東海財務局勤務時代、職場近くの大津橋に「アメリカ文化センター」(現:名古屋アメリカン・センター)という図書館があり、ARRLの機関誌であるQSTとか、アマチュア無線ハンドブック(通称:アマハン)が置いてあった。それらの書籍を通して、初めてアメリカの無線技術のすごさを知った。松ヶ谷さんは昼休みに食事を終えると、徒歩で「アメリカ文化センター」に通い、QST誌をむさぼるように読んだ。「いい面での知的な刺激になった」と言う。そんな松ヶ谷さんは、職場では「変わり者」と思われていたらしい。

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1958年のQST誌

[松ヶ谷さんの信条]

このように、松ヶ谷さんは、仕事をしながら、かつ受験勉強もしながら、無線活動を続けた。どちらかというと、運用する時間よりも機器をいじっている時間の方が多かったが、それでも休みの日にはときどき移動運用に出かけたという。これは、何でも興味をもつという松ヶ谷さんの性格で、「友人から移動運用に誘われると、すぐにその気になってしまったからだ」と言う。松ヶ谷さんの信条は、「一番忙しいときこそが、いい仕事できて、いい道楽ができるものだ」である。

松ヶ谷さんは、東海財務局の熱田出張所に勤務していた時、近所で開局していた長谷川尚司(JA2BL)さんとよく無線談義、情報交換を行った。リタイヤ後に久しぶりに長谷川さんとアイボールした際、「無線くらい一生懸命に打ち込んで、事業を手がけていたらホンダさん、松下さん、ソニーさんのようになっていたかも知れないね」という話になり、「そうかも知れないなあ」と思うほど、仕事でなく無線の方に力を入れていたと、松ヶ谷さんは笑いながら話す。

[行方不明事件]

東海財務局に転職して間もない1959年9月26日、名古屋市および周辺地域を「伊勢湾台風」が襲った。この年の台風15号は伊勢湾沿いに北上し、名古屋市およびその周辺地域に大規模な水害をもたらし、死者約5100名という大きな被害となり、後に「伊勢湾台風」の名称が付けられた。

松ヶ谷さんはウイークデーであれば、勤務先の独身寮で寝泊まりすることが多かったが、この日は土曜日であったことと、台風の接近で電車が止まるかも知れないと感じたため、午前中の勤務を終えた後、すぐに近鉄電車に乗って津市の自宅へ帰った。風は強かったものの家に辿り着くことはできた。しかし「その後が大変なことになっていた」と言う。ほどなくして、停電となり電話も不通、交通機関も止まってしまった。「2、3日で復旧するだろう、と思っていたらいつ復旧するかわからない状態となってしまった」と語る。

勤務先に連絡する方法はなく、いらいらして自宅に留まっていると、勤務先の独身寮が全壊、さらに本人から何の連絡もないので、「行方不明者」として処理されていた。そんなことを知らない松ヶ谷さんは「大被害の状況から見て、実家に帰ったまま連絡が取れないものと判断してくれている」と思い続けていたと言う。

[1カ月の不通]

現在では想像できないことであるが、交通機関は半年、電気、電話さえも約1カ月も不通となってしまった。電気が復旧した時、松ヶ谷さんはすぐに無線機の電源を入れ交信を始めた。幸い、名古屋市内の森一雄(JA2ZP)さんとつながり、勤務先の東海財務局へ「松ヶ谷卓平は生きている」、と連絡して欲しいと依頼した。

その時点では名古屋市内でもまだ電話は復旧していないらしく「森さんはスクーターを飛ばして財務局に行ってくれた」と言う。その森さんが後の東海地方本部長になる森さんだったことを知ったのは十数年後だった。1972年、松ヶ谷さんは、当時JARL東海支部会計幹事であった森さんから三重県の会計幹事を頼まれることになる。その後、松ヶ谷さんは名古屋〜津間を船で行き来する生活をしばらく続けることになった。