[FEN名古屋放送局]

松ヶ谷さんは、東海財務局で国有財産の管理を行う部署に配属された。ある時、FEN(Far East Network)名古屋※の放送局跡に現地調査に行くことになった。この放送局は名古屋港の11号地にあり、戦後すぐ1945年9月に開局し、1270kHz、出力10kWで英語の放送を行っていた。松ヶ谷さんの年代、またその少し上の年代では、このFENを聞いてJAZZに没頭した人も多かった。

※1945年ARFS(Armed Forces Radio Service)名古屋の名称で開局し、在日米軍関係者とその家族向けに放送を開始した。ARFSは1952年3月にFENに改組された。FEN名古屋は1953年11月に廃止されたが全国各地のFENは米軍基地を中心に放送を続け、1997年AFN(American Forces Network)に改名され、現在に至る。

1951年に調印されたサンフランシスコ平和条約以降、電波行政の主管が日本に戻った。この結果も作用して1952年にはアマチュア無線も再開された。米軍に接収されていたFEN名古屋放送局も日本に返還されたために、松ヶ谷さんはその現地調査に行ったのである。

放送局跡に着くと、局舎のポストの中には、米軍が引き払った後に届いたであろう、SWLからの受信報告ハガキや、受信報告書が同封されていた封書が数多く残っていた。それを見た松ヶ谷さんは、「こんな風にとどいていたのか」とSWL時代を思い出したという。放送局跡には、送信設備こそ残されてなかったが、アンテナや、送信局舎跡は稼働当時のまま残っていた。

[14MHz用DP]

現地調査を行っている時、プレハブの物置小屋の隣に、ワイヤーの長さから判断すると14MHz用と思われる半波長ダイポールが張ってあるのを発見した。同軸の先は物置小屋に入っていた。松ヶ谷さんは、「これは間違いなくアマチュア無線用のアンテナだ」、「放送局員が空き時間に趣味で運用していたに違いない」と思い、何かこの局の手かがりはないかと、仕事そっちのけで、そこら中を探し回った。すると、ある木造の建物の玄関のドアの上にW8xxというコールサインが3mmぐらいのドリルを使って刻み込まれていた。これはおそらく本国のコールサインで、日本ではいわゆるKA局を運用していたのであろうと思った。松ヶ谷さんは、リタイヤ後にデイトンハムベンションを訪れた際、オハイオ州デイトンはW8なので、その時の記憶が蘇ってきたと言う。

また、その放送局跡にはコネクタが付いたままの同軸ケーブル(RG-8/U)が大量に廃棄されていた。当時のアマチュア無線局にとって同軸ケーブルは、まだまだ高価であり、この廃物をなんとか利用できないものかと思ったという。局舎内には送信機こそ無かったものの、大きな発電機は放置されてあり、こんなものを残して引き揚げるとは、アメリカはすごい国だと感じたと言う。

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1960年に松ヶ谷さんが自作したトランスレスのSSB用ダブルスーパー受信機。(前段にコンバーターを付けオールバンドで動作する)

[アメリカの文化]

名古屋市中区にはトリイマソニックロッジという名称の米軍関係者用の集会所兼娯楽施設があった。そこにはジュークボックスが放置されていたが、解体業者もその使い方を知らなかった。松ヶ谷さんは、電源トランスだけでも入手できないものかと思ったと言う。また、名古屋城の近くにはキャッスルハイツという名称の米軍関係者が使っていた住宅があった。そこの一室には学校の放送室のようなちょっとしたスタジオがあり、館内放送用のアンプなどが残されていたと言う。余談ではあるが、日本国内にあった米軍施設内のACは100Vではなく117Vが供給されていたため、電気機器は117V仕様のままだった。

このように戦後しばらくの間、米軍が接収していた施設が名古屋市内に至る所にあった。松ヶ谷さんは、入札で選んだ専門業者に、これらの施設の解体撤去をさせて更地にすることが仕事だった。解体時には必ず立ち会うため、おかげで建物の構造にも詳しくなり、ツーバイフォーという構造もこの時に覚えた。と同時にアメリカはなんて合理的な国だと感じた。このようにアメリカの文化に触れられたことはいい体験だったと話す。

伊勢湾台風後も、松ヶ谷さんは津市内の自宅から、名古屋まで通った。自宅に帰ると相変わらず、アマチュア無線に関する色々なものを作っていた。当時は、「自分で作ったものがきちんと働くかどうかをテストする機会として、QSOを行っていた」と話す。

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SSB機器の自作に熱中する松ヶ谷さん。(1962年頃)

[SSBに挑戦]

松ヶ谷さんは、1962年11月に葉子夫人と結婚する。新婚旅行にはARRLのアマチュア無線ハンドブックを隠し持って行った。それが旅行先で奥様に見つかり、「無線と奥様とどちらが大事か問い詰められ、苦しい言い訳を行ったことを覚えている」と言う。そのくらい、松ヶ谷さんにとって、全てが無線であった。

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ARRLのアマチュア無線ハンドブック。(1958年版)

松ヶ谷さんはちょうど結婚と前後してSSB送受信機へのチャレンジを始めていた。当時、SSB機を作るのは、フィルターの入手がネックとなっていたため、はじめはQST誌に載っていた記事を参考に、フィルターを必要としないPSN方式にトライした。まず、9MHzでPSN方式によるSSB波を作り、5〜5.5MHzのVFOと組み合わせて14MHzと3.5MHzの送信機を試作した。出力は1〜2Wであった。

この方法だと、(9MHz)+(5〜5.5MHz)で14〜14.5MHz、(9MHz)-(5〜5.5MHz)で3.5〜4MHzとなるため、1つのVFOで2つのハムバンドがカバーできるため大変都合が良かった。しかし、14MHzはUSB方式となり、3.5MHzはLSB方式となってしまうデメリットがあった。それでも、アマチュア的には、皆がその方式に合わせれば問題はない。多くのハムがこの方法に従ってSSBの送信機を使ったため、以後9MHzより上のハムバンドはUSB方式、9MHzより下のハムバンドはLSB方式が使われるようになり、誰かが強制したのではなく、自然にこれが普及していった経緯がある。

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自作の参考にしたARRLのSSBハンドブック。

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松ヶ谷さんも記事を投稿した日本のSSBハンドブック。(1961年/CQ出版社刊)