[SSBトランシーバーが完成]

松ヶ谷さんがSSBトランシーバー作りにチャレンジしていた頃、国際電気が455kHzのSSB用メカニカルフィルターを7,000円で発売した。国際電気以前にも、米国のマッコイ社が9MHzのSSB用クリスタルフィルターを発売していたが、高価でかつ入手も難しかった。松ヶ谷さんは、ジャンクのクリスタルを組み合わせて、フィルター作りにトライしている最中であった。当時、参考にしたのは、鈴木肇(JA1AEA)さん、米田治雄(JA1ANG)さんらが無線雑誌に発表した記事であった。

この国際電気のメカニカルフィルターがどうしても欲しかった松ヶ谷さんは、結婚の時に親戚やハム仲間からもらったご祝儀の中から7,000円をつぎ込んだ。メカニカルフィルターを入手したおかげで、フィルター方式のSSBのトランシーバー(14Mシングルバンダー)が完成した。奥様からは、「SSBトランシーバーの半分は私のものですよ」と、当時よく冷やかされたと言う。

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完成間近のSSBトランシーバー

完成したトランシーバーを使い、14MHzで初めて波を出した。SSBでの初QSOはアラスカの局だった。当時はまだまだSSBの黎明期であり、国内では交信相手が少なく、ほとんど海外局と交信していたと言う。もっとも、SSBの受信に関してはBFOがあれば可能だったため、受信のみできる局は国内にも相当数いた。松ヶ谷さんは、自局の発射した電波をローカル局にモニターしてもらったと言う。

一方、メーカー製の製品としては、すでにコリンズ社からSラインが発売されていた。それらの製品の解説記事を見て、松ヶ谷さんは「そうか、SSBだと送受信でIFを共通にできるのか」、と電撃的なショックを受けたと言う。コリンズ社では、さらにSSB専用のトランシーバーとしてKWS-1、続いてKWM-2を発売した。松ヶ谷さんは、これらの機器の解説記事を読んでSSBへの知識を深めるともに、ますますSSB機器の自作にはまっていった。

[SB-100]

1966年、松ヶ谷さんは米国のヒースキット社から、HFオールハンドトランシーバーのキットであるSB-100を輸入した。QST誌に掲載されていた広告を見て、どうしても手に入れたかった機器だった。当時は、個人で外国から物品を輸入するのは大変な時代であったが、松ヶ谷さんは、当時東海財務局の金融課に所属していたため、外国為替及び外国貿易管理法、関税定率法など輸入に関連する知識を持ち合わせていた。「1ドル360円の時代に360ドルをつぎ込んで、なんとか手に入れた」と言う。このキットは国内ではまだ誰も持っていなかった。

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当時のヒースキットのカタログ(250種類のキットを掲載)

苦労してSB-100を手に入れた松ヶ谷さんは夢中になり、1週間に3日ぐらい徹夜して組み立てた。組み立て説明書はもちろん英文だったが、好きなことなので苦にならず、「組み立ては本当に楽しかった。当時は体も丈夫だったからできたと思う」と話す。

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徹夜して組み立てたヒースキットのSB-100

SB-100の完成後は、14MHzでよく電波を出した。もちろん得意になってリグの紹介を行い、国内のハムからは羨ましがられた。ローカルのハムはこぞってSB-100を見に来たが、遠くでは九州から栗谷亮(JA6AXD)さんが、出張の折りに、わざわざ松ヶ谷さんのところまで見に来たことがあった。

[QST誌]

QST誌はアメリカ文化センターに行けば閲覧できたが、松ヶ谷さんは、アマチュア無線に関する先端技術が掲載されているQST誌を、毎号いち早く購読したかった。当時は丸善などの商社に頼んで入手することも可能ではあったが、時間もかかるし費用も倍額になったため、ARRLの会員になって直接購読を始めた。

その頃の松ヶ谷さんは、毎日通勤電車の中でQST誌を読んでいた。メカニカルフィルター、PTO(L可変のVFO)等の構造や性能に驚き、送信機終段のRFでのNFB、双三極管によるシングルエンドバラモジ、プロダクト検波等々の先進の回路技術を、動作原理の理解に苦しみながらも、大きな感動をもって眺めていた。「おかげで英語の読解力が飛躍的に向上した」と言う。

周りの乗客からは、「なんだ、この若造は英文雑誌なんぞ読んでけつかる」という目で見られていた様だ。そんなある日、四日市から乗車してきた一人の高校生が「無線をやってみえるんですか」と声をかけてきた。それは桜井圀郎(JA2ECF)さんで、以後、電車の中では、桜井さんと無線の技術に関する話をするようになった。

[FDAM-2]

その頃、松ヶ谷さんは、初めてメーカー製の完成したトランシーバーを入手した。それは井上電機製作所(現アイコム)の50MHzAMトランシーバー・FDAM-2であった。送信はクリスタルによる固定周波数方式であったが、松ヶ谷さんは、100kHzごとに5ch分全部揃えた。このトランシーバーは1W出力であったが、オーストラリアの局とも交信できたことを覚えている。

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FDAM-2

当時の松ヶ谷さんはHF用にはAWXアンテナを使用していた。これはダイポールアンテナを給電部でくの字に折り曲げたものを2セット用意し、それをX字型に展開しフィーダーで給電するというアンテナだった。一方、50MHz用には、3エレを八木を使っていた。

60年代から70年代のはじめ頃、832Aを使って50MHz送信機も作った。さらに、144MHzにもオール真空管でAMの送信機を作った。これらの送信機を持ってよく御在所山に登り、移動運用を行ったという。受信はオール真空管のコンバーター+自作のHF機だった。

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144MHzの受信コンバーター

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御在所山への移動運用(1963年)