[家業を継ぐ]

1968年、松ヶ谷さんは財務局を退職した。父親が大病を患って入院したため、家業の松賀屋傘店を手伝わざるを得なくなったことがきっかけであった。当時の松ヶ谷さんは、奥様と5歳の長男、また生まれたばかりの長女の4人家族となっていた。それに加え、両親と実弟の7人が食べていくためには、家業を廃業するわけにはいかず、待ったなしの選択だった。「当時の公務員は給料も安かったし未練はなかった」と話す。

家業を継いだ松ヶ谷さんは、昔みたいに雨傘を作っていてはダメだと考え、経営方針を変え、生産の主体をゴルフファー用のパラソルにシフトした。当時はゴルフブームが始まっており、大手ゴルフ用具メーカーの下請けとなって生産を続けた。「従業員はパートを含め、ピークで20人ぐらいいた」と言う。

入院していた父親であるが、癌だと思っていたところ検査の結果は肝膿瘍であった。アミーバが血液に入ったことが原因であった。父親の主治医はかつて軍医だったこともあり、肝膿瘍は戦時中に南方でよくかかった病気のため、よく知っていた。

[キノホルム]

アメーバ性肝膿瘍にはキノホルムという特効薬があったが、当時キノホルムはその副作用で薬害訴訟が起こっており、目に副作用があることは公然の事実であった。松ヶ谷さんは肝膿瘍のことを、またキノホルムのことをいろいろ調べた。知り合いにも相談した。主治医は副作用を承知した上で使うかどうかの判断を求めてきた。しかし当時はキノホルムを投与する以外の選択肢はなく、松ヶ谷さんは腹をくくってお願いした。

その結果、父親は奇跡的に回復した。ただし、副作用で視力は落ちたため以後細かい仕事はできなくなったが、それでも日常生活に支障を来すほどではなく、90歳まで長生きした。松ヶ谷さんの選択は正しかった。

松ヶ谷さんは、実家の家業を継ぐようになり、自宅で仕事ができるようになったことで、忙しいながら時間の自由が効くようになり、ますますアマチュア無線にのめり込んでいった。津で再び仕事をするようになった後は、面倒見によい松ヶ谷さんには、その頃からJARLの支部長や役員などが回ってきた。

[RTTY]

1970年、松ヶ谷さんはRTTYに興味を持った。現在でこそ、RTTYの運用はパソコンと専用ソフトにより簡単に行うことができるが、当時RTTYを運用している局は非常に少なく、一部のマニアが実験をしているといった状況であった。もちろんアマチュア無線用のRTTY専用装置など存在せず、自作するか、業務用を改造するしか方法は無かったが、精密機器であるテレタイプ装置の自作は困難なため、ほとんどのハムが業務機の改造に取り組んだ。当時の業務機は大きく2種類に大別されたため、有線通信であった電電公社のテレックス用8単位の機器を無線用に改造するグループと、業務無線用の5単位の機器を改造するグループの、2つのグループが当時あったと言う。

松ヶ谷さん達「Mie DX Keyers」のメンバーは、5単位の業務無線用を改造する方法を選び、同じグループの渡辺篤(故人・JA2HQ)さん、長井秀夫(JA2VY)さん、竹内博(JA2BVL)さん達と中古のマシンを探し回った。渡辺さん、長井さんらはテレタイプ社のマシンを入手した。松ヶ谷さんは難波田了(JA1ACB)さんにジャンク屋を紹介してもらい、クライシュミット社の「M150」を入手した。初めて機器の中身を見たとき、松ヶ谷さんは、「そのメカの精巧さに驚き、一目で惚れ込んでしまった」と言う。

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クライシュミット社のM150

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M150の内部

デモジュレーター(復調器)についてはST-6タイプを自作した。入手したトロイダルコアに銅線を手巻きで800回巻き、88mHのコイルを作った。このデモジュレーターの出力をM150に接続してRTTYの送受信ができるようなった。運用中はものすごい音がしたが、おもしろくてQSOを重ねていったと言う。さん孔機は難波田さんから譲ってもらった。「マシンがカチカチカチと紙にアルファベットを打ち出すのにはものすごく興奮した」と言う。

当時、国内ではRTTYを運用している局は少なかったが、獅子堀重孝(JA8ADQ)さんとよくQSOしたことを憶えている。海外では、オーストラリアの局が多かった記憶がある。しばらくすると、オーストラリアからRTTYerのグレン・ハフナー(VK6IQ)さんが尋ねてきた。名古屋DXクラブからの紹介であったが、松ヶ谷さんにとっては初めて海外ハムの訪問をうけた。

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JA2TY局を訪問したグレン・ハフナー(VK6IQ)さん

[マイコン]

1971年11月、米国のインテル社は世界初のマイクロプロセッサ4004を発売した。松ヶ谷さんは「いよいよ個人でマイコン(マイクロコンピューター)を自作できる時代が来る予感がした」と言う。その5年後の1976年8月、NECはマイコンの普及を図るため、安価なトレーニング用組立キットTK-80を発売した。価格は¥88,500円と決して安くはなかったが、松ヶ谷さんは、このマイコンキットに飛びつき、スグに購入して組み立てた。

松ヶ谷さんは、このマイコンのプリンターとしてRTTYのマシンを使うことを考えた。そのため、マイコンで使用される8単位のアスキーコードを、5単位のボドーコードに変換するプログラムを作った。プログラムはTK-80のマシン語で組んだが、これが上手くいき、愛用のRTTYマシン・M150はプリンターになった。「それはもう自慢の種だった」と松ヶ谷さんは当時を語る。当時の松ヶ谷さんは、一時的に無線よりマイコンに多くの時間を費やしたようだ。

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CRTモニター、キーボード、テープレコーダーを装着したTK-80

松ヶ谷さんは、TK-80で円周率(π)の計算にトライしたことがある。計算させたのは2560桁。これには1時間40分ぐらいかかったという。その結果は、もちろんM150でプリントアウトした。ちなみに、現在使っているパソコンでπを計算させると104万桁が40数秒で計算できると言う。

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TK-80で計算し、M150でプリントアウトした2560桁の円周率