[御在所山]

松ヶ谷さんは、毎年、夏場を中心に移動運用にもちょくちょく出かけた。移動先は、三重県と滋賀県の境にある御在所山や、松ヶ谷さんの住む津市にある青山高原の笠取山などであった。まず、御在所山(標高1212m)であるが、今では御在所ロープウェイがあり、容易に山頂に行くことができるが、当時はロープウェイもなく、山頂に行くには登山するしかなかった。1958年、ロープウェイ建設のために山頂にACラインが開通したという情報が石田(JA2AH)さん経由で入った。松ヶ谷さんは、そのACを使えるようにさっそく交渉した結果、許可が下りたため移動運用を計画した。

仲間数人と登山することにしたが、松ヶ谷さんは50MHzの真空管式トランシーバーを担いで登った。写真好きの松ヶ谷さんでも、さすがにカメラまで持って行く余裕はなかったため、この時の記録写真はないが、山の上はまさしく工事現場のような状況だったと言う。山頂では約束どおりACを借りることができたので、急いでセットアップし、50MHzのAMで一声を発したところEスポも出ていないのに、パイルアップになったことを覚えている。苦労して登った甲斐があった。1200mの山頂では予想以上に遠方まで聞こえることに、なにしろびっくりしたという。これをきっかけに、松ヶ谷さんは、高いところへの移動運用に病みつきになった。

翌1959年にはロープウェイが開通し、ロープウェイを使って登れるようになった。そのため松ヶ谷さんは、2回目以降の御在所山への移動運用にはカメラを携えて行った。さらに山頂では、ロープウェイの開通に合わせて開業したロッジを借りることができたため、ロッジから一晩中運用したと言う。50MHzでは3エレ八木を使い、遠方との交信はバンドが静かになる夜中に行った。

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御在所山移動 (1962年)

[青山高原]

松ヶ谷さんの住む津市と、伊賀市の境にある青山高原(主峰は笠取山、標高842m)にも、時々移動運用に行った。当時の青山高原には、電電公社(現NTT)の中継所や自衛隊の基地があったため道路が整備されており、車で移動運用に行くことができた。ただし、御在所山のようにACを借りることはできなかったため、発動発電機を車に積んで出かけた。車での移動にはロープウェイのような重量制限もないため、HF機を含む大量の機材を持って行ったと言う。

ある時、山の麓の自宅にいる仲間と交信したことがあった。松ヶ谷さんは、「よく飛ぶ山の上で一緒に運用しよう」と、その仲間を誘った。すると「分かった。これからそちらに向かう。差し入れにはカシワを持って行く。」と返答があった。しばらくすると、その仲間が車で青山高原にあがってきたが、「これ食おうや、新しいぞ」と、生きた鶏をそのまま持ってきた。松ヶ谷さんは面食らった。結局、じゃんけんで負けたメンバーがその場で鶏をさばいたと言う。このように移動仲間にはおもしろい連中が多かった。

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青山高原移動 (1969年)

話は戻るが、青山高原には、戦後米軍が駐屯しレーダーサイトを構えていた。松ヶ谷さんは高校時代、ハイキングで青山高原に登ったときに、道に迷い誤って米軍基地の中に入ってしまったことがあった。米兵に見つかっていきなり銃口を突きつけられた。基地への侵入者なので当然の結果ではある。喉がカラカラだった松ヶ谷さんは、つたない英語で「Water Water」と発して水を求めたところ、米兵は親切にも水をくれたが、一杯飲んだ後は、「出てけ」とスグに追い出された経験がある。今の自衛隊は、米軍が撤収した後に入所したという訳である。

[その他の移動運用]

岐阜県と滋賀県の県境にある伊吹山(標高1337m)にも移動運用に行った。ここでは、麓まで電車で行き、無線機器の担ぎ上げを行った。伊吹山ではバンガローを借りて運用したが、標高がある割には、あまり電波が飛ばなかった。理由は2つあり、1つは、この時はじめてオール半導体の50MHzのトランシーバーを持って行ったが、電池駆動のため出力が1W以下と少なく、さらにアンテナがホイップアンテナだったためゲインが無かったこと。もう1つは、伊吹山の近辺には無線局が少なかったことであった。バンガローで運用した翌日には、伊吹山の頂上までその機械を持って登ってみたが、結局1、2局しかできなかった。「さすがにこの時ばかりは無線より山登りを楽しんだ」と苦笑する。

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伊吹山移動 (1964年)

その他、長野県野沢温泉村にある上の平にも移動運用に行った。松ヶ谷さんのローカル局が野沢温泉村の現地局と7MHzでQSOを重ねるうちに親しくなり、「一度遊びに来い」という話になったことがきっかけであった。その頃、たまたまトヨタのパブリカを新車で買った移動仲間がおり、5人乗りのパブリカに定員一杯の5人乗って、さらに機材も詰め込んでぎゅうぎゅう詰めの状態で長野に向かったことを覚えている。

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野沢温泉村移動 (1967年)

野沢温泉村に到着した後は、現地局に道案内してもらった。運用を予定していた上の平では、ACが使えることがあらかじめ分かっていたので、松ヶ谷さんは、愛用のHF機であるSB-100を持って行った。移動運用を終わって山から下りた後は、地元の高校のクラブ局に立ち寄り、ミーティングを行い地元ハムと交流を深めたと言う。