[W7NLB]

松ヶ谷さんが初めてアイボールQSOしたW(米国)の局は、スズキ(W7NLB)さんであった。スズキさんは、シアトルに住む日系2世。両親が三重県出身で、先祖の墓が三重県内にあるため、墓参りを兼ねて来日したものだった。スズキさんは、そのときラグチュー仲間であった同じ津市内に住む赤塚健三郎(JA2VO)さんのところを尋ねてきた。赤塚さんは、松ヶ谷さんの仲間内では一番英語が達者であり、赤塚さんの紹介でアイボールQSOとなった。

photo

W7NLBスズキさん

赤塚さんは若い頃船に乗っており、その関係で米国のシアトルにしばらく住んでいたことがあった。シアトルでの日系人の集会に出たところで、スズキさんと知り合った。スズキさんは当時、車に無線機を積んでおり、車に同乗した赤塚さんはスズキさんから「これはアマチュア無線だよ」と教えてもらい、そこで興味を持って、帰国後に免許を取得しJA2VOを開局したという経緯がある。そんな関係で、赤塚さんとはスズキさんはいつも14Mでラグチューを行っていた。時代も変わって最近ではスカイプでしゃべっていると言う。

松ヶ谷さんは、スズキさんから、「生きている間に一度、シアトルに遊びに来い」と言われていたが、たまたま今年(2007年)、そのチャンスが到来した。実は、愛知県に住む松ヶ谷さんの長男の子供(松ヶ谷さんの孫にあたる)の1人が、第50回(2006年度)日本学生科学賞に、学校の理科クラブから応募し、県で1位となって中央審査(全国大会)に進み、みごとマイクロソフト奨励賞を受賞した。そのためマイクロソフト社から招待を受けて、5月にシアトルに行くことになった。なお、日本学生科学賞とは、1957年に創設された中学生と高校生のための科学自由研究コンテストで、「科学の甲子園」とも呼ばれている伝統のあるコンテストである。

シアトルに行くには15才以下では付き添いが必要ということになり、両親は「仕事が忙しいので無理、ではおじいちゃん頼む」、という話になったのだ。松ヶ谷さんは千載一遇のチャンスと期待したが、結局、マイクロソフト社日本法人の社員と旅行会社の担当者が付き添いとして同行することになり、シアトルに行ける話は流れてしまった。松ヶ谷さんは大変残念がる。

[WA6IVM]

スズキさんの次にアイボールQSOしたのは、サンフランシスコに住むレイ(故人・WA6IVM)さんであった。熱烈な親日家であったレイさんは、7MHzによく出ており、松ヶ谷さんは何度もQSOした。レイさんは、度々日本のアマチュア無線関連雑誌で取り上げられ、また本週刊ビーコンでも、島(JA3AA)さんの連載第21回、荒川(JA3AER)さんの連載第19回などにそのコールが登場するなど、かなりのJAびいきであったことが分かる。

photo

WA6IVMレイさんと松ヶ谷さん

当時レイさんは、松阪市の丸山益郎(故人・JA2LC)さんとよくQSOしていた。レイさんが丸山さんを訪ねて三重県に来た際、松ヶ谷さんは松阪でアイボールした。レイさんの息子もハムになったが、若いうちに他界したと言う。

[W6NGO]

松ヶ谷さんのシャックを初めて訪れた米人ハムは、日系二世のケイ(故人・W6NGO)さんであった。ケイさん自身は米国で生まれ育ったが、それにしては流暢な日本語を話したことを覚えている。松ヶ谷さんは、1984〜85年にかけて初めて米国を訪れた際、ケイさんの自宅も訪問している。

ケイさんは、太平洋戦争が始まる前、実兄と共に早稲田大学に留学していた。時代は日米開戦に向けて進んでいたため、一般庶民でも日米関係の雲行きが怪しくなっていくことを感じていた。1941年になって、いよいよ日本に残るか、米国に帰国するかを決断する時がきた。この時兄弟で意見が分かれ、兄は日本に残ることを決め、弟であるレイさんは米国に帰ることを決めたと言う。

1941年12月8日、日米が開戦した。兄は日本軍に召集された。米国にいたケイさんは、米国国籍を持ってはいたが敵国の人間という事で迫害され、日本人キャンプに収容された。そんなこともあって米国軍への入隊を志願した。これを一番心配したのは母であった。兄弟で戦うことになるからだ。幸いにもケイさんはイタリア戦線に派遣されたので、兄弟で殺し合うことは避けられた。その頃、母は日本人キャンプで悶々とした生活を送っていたが、日本が勝つと信じ、キャンプ内でも一切英語は勉強しなかったと言う。

photo

松ヶ谷さんのシャックを訪れたW6NGOケイさん

ケイさんは、リタイアした後、毎年のように来日し、方々のハムの友人のところを渡り歩いた。松ヶ谷さんの家にも何度となく訪れたと言う。奥様同伴で来たこともあった。

[W6CZL]

松ヶ谷さんは、日系二世であるマス(故人・W6CZL)さんともよくQSOした。QSOではいつも松ヶ谷さんが日本語でしゃべり、マスさんは英語でしゃべった。もちろんマスさんは日本語をしゃべることもできたが、日本語をしゃべるのは疲れるという理由だった。来日時、マスさんと松ヶ谷さんが車で移動している時のこと、ラジオから流れる普通の番組では一緒に笑ったりしたが、ニュースになるとマスさんは、内容がさっぱりわからないと言った。「NHKのニュースは一番正しい日本語だぞ」と松ヶ谷さんは笑って答えた。

マスさんは一度、娘さんを連れて来日ことがあった。娘さんは三世になるので、日本人の顔はしていても日本語は全くダメであり、考え方や文化も完全にアメリカ人であった。マスさん親子を伊勢神宮に連れて行ったところ、娘さんが、老婦人から日本語で道を聞かれたことがあった。娘さんは、「私は米国からきた旅行者なので日本語が分かりません。ごめんなさい」といった内容で英語で返答したところ、老婦人は「年寄りをバカにしてるのか」と怒って立ち去ったという。お互いに悪気は無いことであり、これは仕方がなかった。また、伊勢神宮を案内した帰り道、マスさんが「ウナギが食べたい」というので、松ヶ谷さんは、ウナギをごちそうしたことがあった。マスさんは喜んで食したが、娘さんは、気味悪がって食べなかったと言う。

photo

来日したW6CZLマスさんと娘さん。伊勢神宮でのスナップ

松ヶ谷さんは、マスさんの来日前に、一度おもしろい問い合わせを受けたことがあった。「今は政治家になっているハズだがニクワイドという男を知っているか」、「今度日本に行くときに彼のところに遊びに行く約束をした」、「何度か電話をかけたがなかなかつながらない。あいつは何者や」、「取り次ぎのものがこちらの日本語がわからないのかなあ」という内容だった。

松ヶ谷さんは、マスさんの言うニクワイドさんが誰なのが想像もできなかったが、マスさんが来日してニクワイドさんと会い、その後三重県の松ヶ谷さんのところに来てから、ニクワイドさんの正体が判明した。マスさんのいうニクワイドさんとは、要職を務めた元自民党衆議院議員で、2000年に没した二階堂進さんのことであった。二階堂さんは若き頃米国に渡り、南カリフォルニア大学ならびに同大学院を卒業しているが、そのときに下宿していたのがマスさんの家であったのだ。マスさんと二階堂さんは年齢も近かったため、休みに日にはよく一緒にドライブに出かけたと言う。

マスさんの来日時、約束をしていた二階堂さんの事務所に出向いたところ、面会の順番を待つ来客が列をなしていたが、二階堂さんの秘書に今到着したことを伝えたところ、そのまま奥に通してくれてスグに会えたという。マスさんは「しかし、偉いさんになったなあ」と松ヶ谷さんに笑いながら語ったと言う。

マスさんからは、毎年クリスマスカードが届いていたが、2000年頃に届いたカードに、気になる記述があった。「来年はクリスマスカードが書けるかわからない」と書かれていた。結局、そのカードがマスさんから届いた最後のクリスマスカードとなった。