[JA3XPO]

1970年、大阪府吹田市にて、日本万国博覧会(別名:大阪万博)が開催された。日本を含む77ヶ国と4つの国際機関が参加し、総入場者数約6400万人は万博史上最多の数であった。この博覧会に米国サンフランシスコ市が出展したパビリオン「サンフランシスコ市館」の中に記念局JA3XPOが開設された。なお、JA3XPOの詳細は、本週刊ビーコン連載「関西のハム達。島さんとその歴史」をご覧いただきたい。

1968年に大蔵省を退職し、1970年には、すでに自宅で家業を営んでいた松ヶ谷さんは、大阪万博に3回行ったと言う。一度は家業である松賀屋洋傘店で働く職人さんを連れて社員旅行として行った。もう一度は子供を連れて家族旅行として行った。最後の一度は無線仲間と行った。この時は当然ながら記念局を運用することも目的の一つであった。

万博会場に入場し、サンフランシスコ市館に行くと、当日のJA3XPOの管理は、JARL役員の2、3エリア合同会議で顔見知りだった島本正敬(JA3USA)さんが担当していた。たまたま松ヶ谷さんの来場時はオペレーターがいなかったため、「ちょっと運用してもらえませんか」と言うことになり、松ヶ谷さんは喜んで14MHzを運用した。本来は先に申し込んでからの運用となるため、原則飛び込みでの運用はできないことになっていたが、運が良かったと言う。

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大阪万博の記念局JA3XPOを運用する松ヶ谷さん

ちょうど松ヶ谷さんが運用しているとき、米国人がパチパチと写真を撮っていることに気づいた。来場者が記念撮影しているのだろうと気にしなかったが、後日、QST誌にJA3XPOを運用している松ヶ谷さんの写真が掲載されてびっくりしたと言う。写真を撮っていたのはARRLの関係者であったようだ。

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QST誌1970年8月号。右上の写真に松ヶ谷さんが写っている

[三重県支部長になる]

1972年、愛媛県松山市で開催された第14回JARL通常総会で、県支部制が決議され、それまでコールエリアごとに置かれていた支部が各県に置かれることになった。郵政省の認可が下りて定款が変更された後、その年の秋に一斉に選挙が行われ各県に支部長が誕生した。三重県の初代支部長は石田さん(JA2AH)が選ばれ、その他の県役員も決まった。

評議員も各県支部から1名ずつ選出する必要があったが、制度移行の過渡期であった初めの1期(1972〜73年)だけは支部長が兼任することができたため、石田さんが評議員も務めた。しかし、2期目(1974〜75年)からは、兼任ができないことなり、松ヶ谷さんが評議員を引き受けることになった。

松ヶ谷さんは評議員を一期務めた後、今度は支部長に立候補することになった。これは、石田さんが引退することになり、後任として伊藤明生(JA2ANJ)さんが立候補することになっていたが、伊藤さんのJARL会員歴が被選挙権に少しだけ足りず立候補届けが受理されなかったため、急遽、松ヶ谷さんがピンチヒッターとして立候補することになったのであった。

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1976年の三重県ハムフェスティバル

松ヶ谷さんは支部長に選ばれ、1期2年(1976〜77年)を務めた後、支部長を辞した。「臨時に引き受けたものであったことと、松ヶ谷さんの性格として、無線機のトラブルに関する面倒をみるのは得意中の得意であったが、人間のトラブルへの対応は不得意であったため」と理由を説明する。次期は、伊藤さんが問題も解決して支部長に選ばれ、松ヶ谷さんは再び評議員になった。その後、評議員を2期務め、支部長になる前の1期も加えると合計3期務めたことになる。「しかし、一つの組織の長としての体験は、その後の企業経営に大いに役立った。また、評議員としては、その出身母体の権益を守るよりも、組織全体の利益のために尽くすべきであることも痛感した」と語る。

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1977年 伊勢市で開催されたJARL三重県支部大会で挨拶する松ヶ谷支部長

[JARL50周年記念行事]

松ヶ谷さんが支部長時代の1976年、JARLが創立50周年を迎え、沖ノ鳥島DXペディションをはじめ様々な行事が開催された。9月23日には記念式典が開催され、諸外国のアマチュア無線連盟の代表をはじめ、約420名が出席して盛大に挙行された。もちろん松ヶ谷さんも支部長として出席した。式典ではアマチュア無線の創世記に活躍した井深大ソニー名誉会長らも出席して祝辞を述べたと言う。

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記念式典の翌24日に開催された記念晩餐会。松ヶ谷さんも出席した

記念式典の翌々日25日から26日にかけ、静岡県の朝霧高原で第2回全日本ハムベンションが開催され、JARLはこれを全面的にバックアップした。ハムベンションの目玉イベントの一つして、JAMSAT(日本アマチュア衛星通信協会)と協力し衛星通信用のトランスポンダー(中継器)を富士山山頂の測候所に設置して、実験して見せようじゃないかということが急遽決まった。

トランスポンダーの製作を担当したJAMSATでは、時間のない中、金輪春夫(JA1JHF)さんが中心となって、何とかプロトモデルを作り上げた。またJAMSATと、JARL、富士山測候所ハムクラブ(JA2YYN)が協力して、富士山にトランスポンダーを設置した。なお、この通信実験はアマチュア業務には含まれないという解釈から、あらかじめ実験局として申請を行い無事に免許も下りて実験の準備は整った。

当日は、富士山測候所に設置されたトランスポンダー局(JS3AK)を介して、朝霧高原(JS3AL)、東京(JS2FK)、名古屋(JS3AM)で通信実験を試みたものの、残念ながらハムベンションの当日には当初の計画通りにはいかなかったと言う。(後日の実験では成功した)