[ふじ]

国産のアマチュア無線用人口衛星として最初に作られたJAS-1のプロトモデルは、JARL50周年記念行事のイベントの1つとして富士山山頂に設置され、トランスポンダー(中継器)の動作実験を行い成功した。それからしばらくして、JARLの肝煎りもあり、JAMSATと協力し、打ち上げに向けてプランを進めていこうという話になり、アマチュア衛星委員会が立ち上げられた。

JAMSATでは、金輪晴夫(JA1JHF)さんが中心となり、在京メンバー主体で、衛星搭載用のトランスポンダーの製作を担当した。耐熱試験や各種の測定は、メーカーや大学などに頼んだと言う。そのような動きもあって、松ヶ谷さんは、JAMSATの例会に出席するため、よく東京まで出向いた。前川公男(JA9BOH)さんもいつも福井から出てきていたと言う。

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松ヶ谷さんのシャックを訪問した前川さん

製作着手から3年を要して完成したこの人工衛星JAS-1は宇宙開発事業団・種子島宇宙センターに運ばれ、打ち上げられることになった。1986年8月13日午前5時45分、JAS-1を乗せたH-1ロケットは大崎射場から打ち上げられ、チリ上空でJAS-1がロケットから切り離され、地球周回軌道に放たれた。打ち上げに成功したJAS-1は「ふじ」と名付けられた。

[ビーコンの受信に成功]

当日、松ヶ谷さんは、朝早く起きて打ち上げの経過を聞いており、日本上空を初めて通過する際に早くもビーコンの受信に成功した。CWでのテレメトリーも受信し、カセットレコーダーで録音した。それはもう自慢の種だったと話す。これはスプートニク1号を受信した時以来の感動だったと言う。

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打ち上げ前のフライトモデル1と2 ――アマチュア無線のあゆみ(続)より

ふじの打ち上げに先立ち、管制は誰が行うのかという話が出た。前川さんが住む福井県大野市に管制局を作るという案もあったが、最終的にはJARL本部で管制を行うこととなった。打ち上げ後数時間にわたって各種データを取得した結果、衛星の状態に問題はないことが確認されたため、管制局によりついにトランスポンダーがオンにされた。

[運用を開始]

ふじ1号にもオスカーナンバーの12番が付与され、FO-12(ふじオスカー12)と決まった。すでに衛星通信用のアンテナ(マスプロ電工のオスカーハンター)を上げて準備していた松ヶ谷さんはスグに運用を開始した。衛星の軌道は愛用のTK-80BSで計算させて追尾したという。これは当時、アマチュア無線で衛星通信を行うのに最新の設備であった。

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14MHz4エレ八木と衛星通信用のアンテナ

オスカー8号などに比べると軌道が高かったFO-12ではアラスカや、時には米国西海岸(W7)とも通信が可能で、DXもけっこうできたと言う。当時は高々度衛星のAO-10がすでに稼働しており、FO-12の後には、AO-13も打ち上がり、多くの衛星を使うことができた。太陽活動、電離層のコンディションに左右されない衛星通信は、別の意味で大変楽しめたという。なお、松ヶ谷さんは、衛星通信のログだけ紛失してしまい、当時の交信結果の詳細が分からなくなってしまったと今でも悔しがっている。

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FO-12経由で交信した局のQSLカード

[ヒューズ]

トランスポンダーを制作していた頃、JAMSATのミーティングで、電源回路にヒューズを入れるという話をしていたことがあった。松ヶ谷さんは、「なんで電源にヒューズを入れるのか、もしヒューズが切れても誰も取り替えられないから、入れる必要はないんじゃないか」と質問したことがあった。すると、「ヒューズを入れる意味は、不具合が発生した際、他の回路に影響が及ばないように、順番を決めてヒューズが切れるようにするためなんだ。ダメな部分だけを切り離すためにヒューズが必要なんだ」という説明を受け、納得したと言う。

トリマーなどの部品はメーカーの研究所から高規格の試供品を使わせてもらったが、研究所からは「使い終わったら必ず返してくれ」と言われた。メーカーとしては、データが欲しかったようだ。アマチュア的にはトリマーを何回か回してピークを取りそれでOK。しかし、本来トリマーは信頼性を上げるために、調整してOKになった後、新品に取り替え、左端から調整完了のところまで1回だけ回してOKにすると言うことだった。

メーカーからは「このトリマーは何回、回しましたか」と聞かれ、JAMSAT側では、データを取っていなかったため、「申し訳ありません、そんなことは考えてもいませんでした」と謝ったと言う。松ヶ谷さんは、直接トランスポンダーの制作に関わったのではなかったが、「当時の最先端の技術の世界をちらっと覗けたことは、非常に参考になった」と話す。