[サイクル19]

サンスポットサイクル19がピークに達した1958年、1アマを取得した松ヶ谷さんはHF帯をメインにオンエアしていたが、ある日「50MHzがおもしろい」という話を聞いた。当時の2アマは、3.5MHzと7MHz、それに50MHz以上のバンドのみ運用が可能であったため、3.5MHzや7MHzのHF帯を楽しむグループと、50MHz以上のVHF帯を楽しむグループの、大きく2つに分かれていた。VHF帯を楽しむグループからその話を聞いた。ただし50MHz以上とはいっても、「当時の144MHzはまだ閑散としており、ほとんどのハムが50MHzだけを楽しんでいる状況だった」と言う。

その頃、955というジャンクのエーコン管が出回っていた。松ヶ谷さんは、その955を手に入れ、50MHzにチャレンジすることにした。適当に線を巻いたコイルとコンデンサで自己発振方式のAM送信機を使った。受信は超再生という方法を採用した。この方式は当時流行っていたものだった。こうして送信機と受信機が完成したので、松ヶ谷さんは50MHzでのオンエアを開始した。

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3段式に組んだ50MHz AM送信機

[Eスポ]

ある夏の日、送信機のテスト中、「テスト、テスト、こちらはJA2TY」とマイクに向かってしゃべっていたところ、いきなりJA8の局がガツンと呼んできたことがあった。それまでの松ヶ谷さんの経験から、50MHzで北海道の電波が聞こえるハズがない。こちらの電波も北海道まで飛んでいくハズがないと思い、実験中であったこともあって、「近所の局がいたずらしていると考え相手にしなかった」、「おそらく、JA8の局も同じように思い、すぐにいなくなった」と言う。

後日、それはEスポという特殊伝搬によるもので、その伝搬があれば50MHzでも北海道とも交信できるという話を聞いた。「お互いに知識があれば、記録に残った交信になったかも知れない」と松ヶ谷さんは悔しがった。そんな経験もあって、50MHzのおもしろさを知り、本格的に運用を始めた。

[50MHz DX]

Eスポによる伝搬で国内の遠距離と交信できるようにはなったが、それでも「50MHzは所詮VHFのため海外通信には適さない」と考えており、もっぱらDXはHF帯で楽しんでいた。しかし、ある日50MHzをワッチしていたところ、いきなりVK(オーストラリア)が入感してきた。さらに秋になると、PY(ブラジル)やLU(アルゼンチン)といった南米も入感をはじめ、50MHzに対する考えが変わっていった。「これはおもしろい」と、松ヶ谷さんは50MHzの虜になった。

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1959年2月、50MHzで初めてQSOした海外局VK4ZAZのQSLカード

松ヶ谷さんによると、当時50MHzを運用している局は、2アマ局が多かったためCWモードで出ている局は少なかった。一方、海外局はCWで入感することが多く、そのため競争相手が少なく、50MHzでのDXとの交信はそれほど難しくなかったという。

[SSB]

50MHzでは、電話モードはまだまだAMが主流であったが、SSBで運用する局も少しずつ出始めていた。どちらかというとソフト面よりもハード面により興味のあった松ヶ谷さんは、「じゃあ俺もSSBにトライしよう。50MHzでSSBをやるなら、トランスバーター方式がベストだ」と考えて、トランスバーターの制作に取りかかった。当時ヒースキット社からSB-110という50MHz専用のトランシーバーが発売され、それからも刺激を受けたという。

受信回路には真空管を使ったが、松ヶ谷さんはプリント基板で作ってみた。当時家電品ではすでにプリント基板が採用されていたものの、アマチュア無線ではまだまだ珍しかった。もちろん量産する目的ではなく、技術的に興味によるトライだった。「回路図からプリント基板を作るのはクイズを解くようでおもしろかった。プリント基板のエッチングは台所で行ったが、今から考えてみれば、とんでもない公害の垂れ流しであった」と、松ヶ谷さんは笑う。

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プリント基板を使って作った50MHz用トランスバーター

トランスバーターは無事に完成し、SB-100を親機に使用して松ヶ谷さんはSSBに出るようになった。時はサイクル19の終盤頃であり、「トランスバーターで50MHzのSSBに出ていたのは、全国でもまだまだ珍しく、三重県ではおそらく初めの方だったと思う」と言う。

[サイクル20、21]

サイクル20が到来し、1968年頃から再び50MHzでDXが入感しだした。1970年、サイクル19時代によくAMモードでQSOした、(松ヶ谷さんの50MHzでの1stDXである)VK4ZAZ・ランスさんと再会を果たした。モードはもちろんSSBだった。その他にも「サイクル19の時にAMでQSOしたDX局と、次々にSSBで再会した」と言う。

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サイクル20のピーク1970年に使用していたアンテナ群。50MHzは3エレ八木

その後サイクル20の終焉とともに松ヶ谷さんのアクティビティは下がり、1970年代後半から立ち上がったサイクル21の時代には、「マイコンのTK80に夢中になっており、50MHzの運用はほとんど行わなかった」と言う。サイクル21当時、電話モードはすでにSSBが全盛となっており、AMは一部の局が細々と運用を続けているという状況になっていた。

そのサイクル21の時代、世界的に50MHzを運用する局が増え、それと同時に、市販品のトランシーバーも充実しハードの性能が格段に向上した。それにより50MHzで6大陸との交信を成功させ、WAC(Worked All Continent 6大陸交信賞)を受領する局が次々に現れた。日本から50MHzでWACを完成させるにはヨーロッパとの交信がネックだった。その当時、ほとんどのヨーロッパ諸国ではまだ50MHzが免許されておらず、ごく一部の局が運用している程度、かつ日本とヨーロッパがオープンする日も春と秋の数日のみという状況であったため、困難を極めた。それでも、数少ないチャンスをものにし、50MHzでWACを受領する局が日本でも何局か現れた。