[デジタルモードの実験]

松ヶ谷さんが始めて手にしたパソコンは、1976年にNECから発売されたトレーニング用組み立てキットのTK-80だったことを本連載第8回で紹介した。このように黎明期からパソコン(当時はマイコン)に親しんでいたことと、同時にアマチュア無線による通信も行っていたことから、パソコンを使った通信を始めることはごく自然な流れであった。

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稼働中のTK-80(三重県支部大会でのデモ中)

松ヶ谷さんは、電話回線などを利用した有線のパソコン通信より先に、パケット通信から入った。しかも、パケット通信が普及する以前から、松ヶ谷さんは、独自方式のデジタル通信でなんとかデータを送れないかと、朝熊山に設置したレピータ(JR2WV)経由で、折り返しの実験をしていたことがある。1984年頃の話である。レピータで折り返せば、送信と受信が自局だけで実験できるからだ。

しかし、JR2WVを普通にワッチしている局にとっては、「ピギャー、ピギャー」という耳障りな音しか聞こえず、レピータ妨害、またはいたずらとしか思えない。松ヶ谷さんは「何をやっているんだ」と怒られた。その後はあらかじめ、先に断ってから実験を続けた。当時、松ヶ谷さんはJR2WVの代表者だったので、あまり文句もでなかったが、「皆には迷惑をかけたと思う」と反省している。当時は、まだパケット通信のプロトコルすら決まっていない時代であった。

[AX.25]

ちょうどその頃、打ち上げを準備していた国産のアマチュア衛星JAS-1(ふじ1号 FO-12)に、デジタルモードのトランスポンダーを積もうという話があり、JAMSAT内では、デジタルモードのプロトコルをどうするかという議論がなされていた。JAMSATの技術面でのコアメンバーであった中山幹康(JR1SWB)さんが、米国のTAPR(Tucson Amateur Packet Radio)と連絡を取ったところ、AX.25がアマチュア無線の標準プロトコルになるらしいという情報を得た。

このAX.25を使用するにあたっての著作権の問題は、最近亡くなられた米田治雄(JA1ANG)さんが解決してくれ、その結果、JAS-1に搭載するデジタルモードトランスポンダーのプロトコルはAX.25と決まった経緯がある。AX.25の最大のメリットは、リレー(中継)が可能な点であった。そのためデジタルレピータ(デジピーター)を中継して、メッセージを遠方まで届けることができた。それ以降、松ヶ谷さんも独自プロトコルでの実験は止め、AX.25方式での実験を行ったが、全国的にもこのプロトコルが浸透していった。

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PRMのメンバー達

[パケット通信]

AX.25プロトコルを搭載したアマチュア無線用モデムであるTNC(terminal node controller)が市販されると、新しもの好きのハムが飛びつき、パケット通信は一気に普及を始めた。中には、RBBS(Radio Bulletin Board System 電子掲示板)を立ち上げる局も現れた。また、中継が可能なAX.25のメリットを活かして、パケット通信を利用したメール交換も一般的になっていった。松ヶ谷さんが所属していたPRM(パケット通信三重)では、故野村太(JE3TSA)さんが作ったソフトでRBBSを運用していた。

パケット通信の運用、またRBBSを見るためにはターミナルソフトが必要だが、これは当時学生であった岡田稔(JR2TBI)さんが作ってくれた。松ヶ谷さんは、この「TBIターム」を使ってパケット通信を楽しんだ。1980年代後半から1990年代中頃にかけ、パケット通信は全国的に全盛期を迎え、144MHz帯あるいは430MHz帯では至る所で、パケット通信の電波をモニターすることができた。

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松ヶ谷さんが使用したPK-80

[PSKモデム]

松ヶ谷さんがパケット通信に使用したTNCは、AEA社のPK-80というモデルであった。JAS-1のデジタルモードを運用する際は、このPK-80に衛星通信用のモデムをつないで試験していた。ある日TASCO社から、「JAS-1用のPSKモデムを試作したが、試験環境がないので上手く動作するかどうか試用して欲しい」、と頼まれたことがあった。すでにJAS-1のメールボックスを使っていた松ヶ谷さんは、快く引き受けた。後日のそのモデムは市場に並んだという。

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PSK用モデム・PSK-1

[有線によるパソコン通信]

アマチュア無線によるパケット通信の普及にわずかに遅れ、1986年、87年頃から有線によるパソコン通信が普及を始めた。すでに地上波によるパケット通信、JAS-1を使った衛星経由のパケット通信を経験していた松ヶ谷さんは、商用ネットであるPC-VANに加入して、有線のパソコン通信も始めた。このパソコン通信は電話回線を使ったもので、電話機とのインターフェースには、音響カップラーを使用。通信速度は300ボーであり、パケット通信の1200ボーに比べてもかなり遅いものだった。

まだまだユーザーも少なかった頃、PC-VANから、パソコン通信を楽しむ松ヶ谷さんと、長男・和沖さんの取材にやって来たという。その後、松ヶ谷さんは、同じく商用ネットのNIFTY-Serveにも加入した。しかし、当時のパソコン通信は通信料が高額だったため、無線仲間とのソフト(コンテスト用ロギングソフトなど)のやりとりは、パケット通信を使うことが多かったという。

その後、EMEを始めた1996年、松ヶ谷さんは、必要に迫られてインターネットの使用を始めた。EMEはスケジュールによる交信が多いが、外国の局とスケジュールを組む場合、当初FAXを使用していた。しかし時代の流れの中でインターネット使ったEメールによるスケジューリングが主流となり、松ヶ谷さんもインターネットを使い始めたと言う。