[デイトン・ハムベンション]

米国オハイオ州デイトンで毎年5月に開催される、世界最大規模のアマチュア無線の催事である「ハムベンション」。熱心なアマチュア無線家であれば、その名を知らない人はいないとも言われるこの催事は、地元のデイトンアマチュア無線協会の主催で、1952年以来半世紀以上にわたって開催されている歴史のあるイベントである。松ヶ谷さんは、このハムベンションに2005年と2006年の2年連続で参加した。

松ヶ谷さんも開局した頃から、QST誌などの記事を通してハムベンションの名は知っており、いつかは参加してみたいという希望を持っていた。そして2005年以前にも、訪問のためのアクションを起こしたことがあった。1994年、松ヶ谷さんが58才から59才にかけての時であるが、ハムベンションへの参加をメイン行事に企画されていた旅行会社のパッケージツアーに申し込んだ。

[2回のキャンセル]

しかし、父親が脳梗塞で倒れ、さらに看病にあたっていた母親も過労で倒れてしまったため、松ヶ谷さんが両親の面倒を見ることになり、申し込んだツアーはキャンセルせざるを得なかった。「その頃は仕事が特に忙しく、仕事をしながら2人の面倒を見るのはなにしろ大変であった」と当時のことを語る。さらにJARL三重の役員をしていたため、土日はJARL関係の業務が結構あった。それでも松ヶ谷さんは何とか仕事と介護をこなしたが、60才になったのをきっかけに、仕事を辞め、介護に専念することにした。

もっとも、元々60才頃にはリタイアしようと考えていたことと、同時にたまたま仕事上での転機が訪れていたこともあって、「躊躇することは無かった」と言う。当時は、ゴルフ用パラソルを主力に自社内で製造していたが、そろそろ国内で作っていたのでは採算が合わなくなりつつあり、生産を海外にシフトしようという動きがあった。松ヶ谷さんには後継者が居なかったため、海外での生産の話はあきらめ、それを機会に松賀屋洋傘店を廃業した。

その後、父親の病状が小康状態になったため、2002年、すでに65才になっていた松ヶ谷さんは、再度デイトン行きのツアーに申し込んだ。しかし、前年2001年に米国では同時多発テロ事件が発生、それに続いてアフガン戦争が始まったため、入国審査が非常に厳しくなっていた。また、さらなるテロの危険性もあって、「こんな時期に米国に行くのはとんでもない」という話が広がり、申し込んだツアーはキャンセル者が続出して、ツアーとして成り立たなくなり、松ヶ谷さんもやむなくキャンセルしたという。

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ハムベンションのメイン会場であるハラアリーナにて。松ヶ谷さん(左)と石黒さん(右)。

[ついにデイトンに立つ]

2005年、69才になっていた松ヶ谷さんはついにデイトンの土を踏んだ。ツアーには通算3度目の申し込みであった。この時は、近所のハム仲間、石黒光一(JA2DJH)さんと2人で出かけた。ツアー全体では20人ぐらいの参加者がいたが、セントレア(中部国際空港)から出発したのは、松ヶ谷さんと石黒さんだけだったため、他の参加者とは、デイトン行きの飛行機に乗り換えるデトロイトで合流する予定になっていた。

デトロイトには予定していた時刻に到着したものの、時節柄、入国審査が厳しく非常に時間がかかった。「指紋をとられ、目の写真も撮られ、さらには靴まで脱がされた」と言う。そのため、松ヶ谷さんと石黒さんは、デイトン行きの予定していた便に乗り遅れてしまった。それでも次便に乗ることができ、何とかその日のうちにデイトンにたどり着き、他の参加者ともデイトンのホテルで合流できた。

デイトンに到着したのは水曜日の夜であったが、ハムベンションは金土日の開催ため、翌木曜日は軽く会場を下見した後、近くにあるジャンク屋にツアーで連れて行ってもらった。そこには、古くからのハム用機器をはじめ、軍用機器や測定器類、真空管などの在庫が豊富にあって感動したと言う。松ヶ谷さんは、大物の購入は見送り、日本では手に入りにくいインチサイズのツマミやネジ類だけを購入した。他の参加者から「通は、ネジとツマミだけですか?」と、冷やかされたと言う。

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ジャンク屋の店内の様子。

[ハムベンション]

ハムベンションの初日である金曜日は、早めに会場に到着して入場した。まずは「その規模の大きさに大変驚いた」と言う。ブースの数は、屋内、屋外合わせて3,000以上あり、「これはとても3日間で回りきれないな」と感じた。先に回った屋外のフリーマーケットでは、往年の名機はもちろん、これまでQST誌の記事や広告の写真でしか見たことがなかった、ハマーランド、ハリクラフター、HROなどのビンテージリグがずらりと並んでいた。さらには、軍用のジャンクの種類も豊富で、「時間を忘れて見入ってしまった」と言う。

松ヶ谷さんは、ここでも大物は購入しなかったが、小物として、日本では手に入らない、もしくは手には入るが高価な、テフロンケーブル、FETのプローブ、パワー計のスラグなどを購入。またARRLのブースで、QST誌やQEX誌のバックナンバーが収録されているCD-ROMを購入。その他には、友人から頼まれたMFJ社のアンテナアナライザーもしっかり購入した。

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ハムベンションのフリーマーケットの様子。

[日系人ハムとの出会い]

ハムベンションでは物も豊富だが、人もまた豊富で、「その数にまた圧倒された」と言う。「会場には数万人の人間が入場しており、その中には、日本人も少なく見積もっても100人はいたと思うが、あれだけ人が多いと、全く目立たなかった」と言う。そんな中で松ヶ谷さんには記憶に残る出会いが2つあった。まずは、本連載第20回でも紹介した、いきなり「お前は50MHzで交信した初めてのJAだ」と話しかけてきた大柄なアメリカ人。

もう1人は、明らかに日系人と見られるハムから「Can you speak Japanese?」と声をかけられた。このハムは米国在住でNS3Oのコールサインを持つキタガワさんという日系人だった。日本語で話し始めると、さっそく「一つ教えて欲しいことがありまして」と切り出され、「先日、日本のハムとQSOした際、自分は88才だと相手に伝えたら、米寿ですねと返された。この米寿とはどういう意味かご存じですか」という質問だった。

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松ヶ谷さん(左)とキタガワさん(右)。

木陰に入って一休みしながら話を続け、米寿の「米」の字は、八+八に分解できるから、88才のことを米寿と呼ぶのですよと答え、次の「白寿」(百から一を引き99才の意味)までお元気で、今度はぜひ無線でお会いしましょうと言って分かれた。しかし「残念ながらまだ電波ではつながっていない」と言う。

2日目土曜日の午後はちょっと会場から離れ、デイトン唯一とも言える観光スポットである空軍博物館(National Museum of the U.S. Air Force)を訪問した。ここは広大な敷地に巨大な施設があり、複葉機から最新のジェット機まで、すべて館内に展示してあった。「B29やP38の実物に出会ったときは複雑な気持ちになった」と言う。また、原爆に関する解説もあり、それには日本に原爆を投下したことにより戦争終結を早め、その結果として多くの人命を救った。という内容が記載されていた。「やはりここはアメリカだ」と思い至ったと言う。

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大型機も室内展示されている空軍博物館の館内の様子。