今、水島さんは千葉県の市川市に住み、東京・有楽町駅のすぐ近くにある勤務先に通勤の毎日を送っている。コールサインJA3VAPを持ち滋賀県・大津市からの単身赴任である。アマチュア無線関連の活動では東京と関西を行き来しているが、実はこの両地区の行き来は子供の時からであった。「転校は8回ありました」と言う。

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自宅の机で。水島少年9歳ころ

お父さんの博さんは、大正10年生まれ、早稲田大学商学部を卒業するころには太平洋戦争が始まっており、在学中に召集を受けて北海道に赴任していたことがある。当時、大学卒業者は専門分野を生かし、そのまま中尉に進級する道があった。しかし、水島さんは「戦時中の話しはあまり聞いていない」と言い、父親の階級には無関心だった。戦後、博さんは日本油脂のサラリーマンとなり、昭和30年(1955年)に東京・品川で水島さんは誕生している。

[JA2PUKとなる]

物心つかない4歳の時、兵庫県・尼崎市に転宅し、小学校は西宮市。ところが小学校3年生のころ東京・調布市に越し深大寺小学校に転入。さらに、わずか2年で名古屋市に移り、瑞穂区の汐路小学校に転入した後、汐路中学に進級。昭和43年(1968年)4月アマチュア無線技士の免許を取る。「JARLの東海地方事務局のあったガーデンビルで行われた養成課程講習会を受講し電話級に合格した」と言う。中学1年の春であった。

養成課程講習会は、増加するアマチュア無線受験者対策として昭和40年(1965年)に制度が出来、翌年から実施された。したがって、43年の講習会は東海地区でも早い時期での開催と思われる。一方、東海地方事務局の開設は昭和42年(1967年)2月。その後、全国のエリア単位に設立される事務局の最初であった。

「自作に挑戦」

水島少年はすぐに自作に挑戦する。すでにラジオの自作で部品が手元にあったことや、中学生でありメーカー品が買えるほどお金がなかったからである。製作した送信機は3.5MHz/7MHz、空中線電力4W、電波形式A3。マイクアンプ6AV6、変調6AQ5、送信段は水晶発振と電力増幅部に6BM8の真空管を使用した。どれも手持ちの真空管ばかりである。

受信機は自作の5球スーパーヘテロダインにプリセレクター。当時、送信機の終段には「807」が盛んに使われていた。ところが「そんな真空管の存在など知らなかった。私の時代は2E26や6146。ともかく知識がないままの自作であった」と振り返っている。

それでも、送信機の系統図を作り、JARLの保証認定を通じて東海電波監理局に申請、JA2PUKの免許を取得して開局する。が、開局したもののまったく交信が出来ない。水島少年は何度も回路を確認し、数キロ離れたOMさんや同級生に電話で打合せしながら電波を出すが届いていない。

[交信できない]

「回路は問題なさそうだ。多分、出力は出ているはず」と、チェックを始める。庭に張り巡らしたアンテナは「中間部負荷型」6m高、長さ15mのロングワイヤアンテナ。「その先端に電球をとりつけると見事に光る。その程度の知識はあったが、それでもどうしても交信はできない」と悩む。「当時は何の知識もない。ディップメーターなど周囲のハムも持っていない。今思えばアンテナが同調しておらず、必須のアースも満足ではなかった」らしい。

「つまりマッチングがとれていなかった」と水島さんは振り返っている。昭和40年代の半ばには、アマチュア無線機は自作から、完成した無線機の市販品を買う時代に移っていた。養成課程講習会で簡単に免許を取得したハムが増えていたからである。周囲にも自作無線機を働かせる知識をもったハムは多くなかった。いずれにしても「ようやくハムになれたのに」と、水島少年の落胆は大きかった。

[当時のJARL東海支部]

この当時、JARLの地方組織はエリア単位の“支部制”であり、東海地区は東海支部と呼ばれていたが、最初の事務局を設けたことでも分る通り活動は活発であった。昭和43年10月には、全国に先駆けて「ハムの祭典」が催されている。このころの支部長は無線通信理論では権威者でもあった神戸幸生(JA2JA)さんであった。

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神戸さん。平成13年10月のころ

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名古屋市で行われた「ハムの祭典」。後に東海地方本部長となる森一夫(JA2ZP)さんが実行委員長としてあいさつ

神戸さんは「このころエリア各地のクラブがクラブ単位でイベントを実施しており製品を出品するメーカーの負担が大きくなったため、集約しての開催を企画した」と後に語っている。昭和47年(1972年)神戸さんはJARLの副会長となるが、この年に名古屋で「アマチュア無線技術シンポジウム」を開催している。

[FDAM−3]

水島少年は、名古屋市内の朝日文化センターで開かれたこの「ハムの祭典」に出かけている。大人達に混じって展示されている無線機を食い入るように見る高校生や中学生の姿も多かった。しかし、コールサインJA2PUKは、名古屋では生かせず、中学2年で転宅、転校となる。引越し先は再び西宮。甲陵中学に転入したが、ここにはアマチュア無線クラブ(JA3YEX)があり、入部するとともにいよいよ「送信機の自作を」と準備を始めた。

ところが自作に失敗ばかりして、落胆している水島少年の姿を見かねた父親が井上電機製作所(現アイコム)の50MHzポータブル機FDAM−3を買ってくれた。「同級生がこのポータブル機を持っており、気に入ったので学校の中間テストの成績と引き換えに父親にそれをねだった」と言う。父親と大阪・日本橋の電気街に出かけて探すが、品切れの店ばかりで「いつ入荷するか分らない」と言われる。

水島少年はそれからしばらくは、毎日のように日本橋の店に電話をかけ、ようやく手に入れることができた。「昭和44年(1969年)の6月ごろから店に通いだし、手に入れたのは夏休みの終わりごろだったと思う」と。その時の記憶は鮮明である。