[ヒット商品]

水島少年が手に入れた50MHzポータブル機FDAM−3について触れると、発売は昭和43年(1968年)の2月。アマチュア無線機メーカーとして後発のアイコムは、VHFバンドで、オールトランジスター回路を武器に参入していたが、FDAM−3はある意味では社運を賭けて開発した製品であり、価格は28500円。当時の大卒の初任給より高価であった。

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当時の井上電機製作所製のFDAM−3トランシーバー

このころのリグは水晶発振器により周波数設定をしていたが、このFDAM−3は始めて送受信にVFO(可変周波数発振器)を採用し、周波数選択を簡単にし、しかも安定性が高かった。加えて、AM、FMの両モードをもち、そのころのポータブル無線機としてはヒット商品となっていた。

[JA3VAP]

FDAM−3を手にした水島少年は、ローカルとの交信に熱中し、出かける時はいつも持参した。当時は50MHzの無線機を車に積み込む「モービルハム」も多く、交信相手は多かった。東海から関西に転宅すると、無線局の常置場所が変わるため届け出をする必要がある。水島少年も申請用紙を買ってきて、近畿電波監理局に送った。当時は手続きに時間がかかり、なかなか返答がこない。

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水島少年の西宮時代のJA3VAPカード

「免許されている2エリアのコールサインで出るよりも、地元のコールサインで出たかった」からだった。自分のコールサインが何になるのかが気になった水島少年は、恐る恐る電波監理局に電話をしてみた。「いま免許状をタイプしています。コールサインはJA3VAPです」と教えてくれた。公衆電話から聞こえたこの係官のことひとことが、以後の水島さんの代名詞となった。

[アンカバが出た]

当時は他のエリアから移転してきた局のコールサインは、申請がある程度まとまった段階で付与していたらしく、水島さんは交信しているなかで、JA3VA*のコールサインがそれに該当することを知る。「事実、当時発行されていたコールブックにはJA3W**までが掲載されていたと記憶しているが、JA3VB*以降は埋っているものの、JA3VA*の住所氏名は空欄だった」と言う。

「新規の申請にJA3VB*以降が順次使われ、移転者のためにJA3VA*を残していたためサフィックス順でなくなり、しばらく空欄の時期があったのでは」と水島少年は推察したらしい。当然、コールサインだけでは名前が分らない。このため、アンカバにそのコールサインがねらわれた節があった。

ある日、水島少年の自宅に若い人が訪ねてきた。話しを聞くと水島少年と交信したことがあるという。ところが水島少年本人は交信した覚えがない。詳しく話しを聞いてみるとどうも水島少年のコールを使うアンカバが出ているようだった。この時のことを水島さんは「多感な少年時代であり、アンカバなどという“悪”は絶対に許せないことであり、大きなショックを受けた」と言う。

[大幅な改造は・・・・・]

自由に交信が出来るようになると、水島少年は交信よりもリグそのものに興味を向ける。「技術が理解出来ない割には、頭で考えてとんでもない改造をしたくなった」と言う。まず、メーターランプを内蔵させるとともに電池の消耗を防ぐためランプをオフにするスイッチを外部に付けた。次いで、大それたことを始める。FM回路には付いているスケルチをAM回路にも付けようと、基板を取り出して改造にとりかかった。

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家族でハイキングに出かける時にはいつもFDAM−3をもって行った

「FMのスケルチ回路を参考に取り組んだが、生半可の知識であり、うまくいくはずはなく、ついに働かなくなってしまった」らしい。恐る恐る井上電機製作所(現アイコム)に修理に出したが、戻って来た製品に「大幅な改造は避けて下さい」と注意書きが同梱されていた。

[ラジオ少年時代]

このポータブル機の改造に触れて、水島さんは「したいことがあって、それが出来てしまうと満足して次ぎのことに挑戦したくなる。この時は交信にある程度満足すると回路をいじりたくなった。そういう性格がある」と自己分析しているが、その癖は小さな時からであった。一般に「ラジオ少年」は幼少時から挑戦心が強い。水島少年も同様であり小学生のころから工作に興味をもち、鉄道模型に夢中になる一方で「漫画ばかり読んでいた」らしい。

心配した父親は当時、科学雑誌で有名であった「子供の科学」を買ってきて水島少年に渡した。水島少年はその雑誌を「貪り読んだ」。小学4年生になると、ゲルマニューム素子を使ったラジオ、さらに1石のトランジスターラジオを自作する。もはや、かつての入門ラジオであった鉱石ラジオの時代ではなく、ゲルマ素子の時代になっていた。

[真空管から半導体へ]

昭和20年代、30年代のラジオ少年が真空管を使いこなすのと同様、40年代のラジオ少年はトランジスターを使うようになっていた。水島少年はその“境界期”にラジオの自作を始めている。トランジスターラジオに平行して真空管を使った「並3」ラジオ、次いで「高1」ラジオ、ついに「5球スーパ」の自作に進んだ。そのころ「どういうわけか、家には真空管などの電子部品などのガラクタやハンダごてなどがあり、それを大切に使った記憶がある」と言う。

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新宿駅の列車ホームで。9歳のころ

水島さんがハムになった時、父親は「おれも和文のモールス符号は判るぞ」と実際に打ってみせたこと覚えている。「軍隊時代に必要で習ったのか、個人的に覚えたのか、その後、詳しい話しを聞くことがなく他界してしまい残念だった。あるいは若い時にはラジオの自作に挑戦していたのかも知れない」と今、無線の話題で対話が少なかったことを後悔している。

もっとも、水島少年はラジオづくりばかりのめり込んだわけではない。「そのころ月の小遣いは300円。近くにホンダが経営していた「多摩テック」というスポーツランドがあり「そこのゴーカートに乗る方が楽しかった。1回200円。それで小遣のほとんどを使ってしまった」らしい。