[万博]

再び、水島少年の中学生時代に戻る。昭和45年(1970年)大阪・千里丘陵でわが国初の「万国博覧会」が開催された。一度はアマチュア無線記念局の開設を断念したJARLであったが、サンフランシスコ市からの急な要請があり、同サンフランシスコ市のパビリオン「サンフランシスコ館」の中に記念局JA3XPOが設けられた。

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大阪万博の記念局で運用した水島さん

水島少年は期間中、何度も記念局を訪ねてビジター運用をしている。記念局ではHFからVHFまでの全バンドの無線機が揃っていたが、特に50MHzが人気であり運用待ちの行列ができていた。ただし、50MHzは飛びが悪くローカルとの交信が多かった。記念局で交信した水島さんの記録でも、遠方局のコールサインは見当たらない。

「JA3AA島さんとの交流」

その時のログ(交信記録)の一枚に、JA3AA島伊三治さんが認証者としてサインしているものがある。島さんは、戦後、もっとも早く電波を出したハムの一人で、DXerとしても知られている。記念局の開設ではJARL関西支部のメンバーとして中心となって動き、その運用時も多大な労力を割いている。水島さんは「中学生坊主からみると、当時は超がつく大OM。ところが後年、KDCFの活動を機会に親しくさせていただいている。不思議なものですねぇ」と振り返っている。

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大阪万博記念局での交信記録。JA3AAのサインがある

記念局は、万博の183日の期間に国内約29800局、海外約7000局、合計37000局と交信している。この記念局開設までの苦闘話や開設後の運用状況については、すでにこの同じ連載である「関西のハム達。島さんとその歴史」に詳しく書かれている。その物語は十分にテレビ番組が構成出来るほどの内容をもったものであり、何度読んでもドラマチックである。

[転居。高校時代]

昭和46年(1971年)水島家は京都府の長岡京市に住宅を求め、それまでの社宅住まいから分譲マンションへ移った。水島少年は近くの府立乙訓高校に入学する。長岡京市は奈良(平城京)から京都(平安京)への遷都の間、約10年間「長岡京」が置かれた歴史的な土地でもある。京都市と隣接し、また大阪府とも接する静かな場所として知られている。

乙訓高校にはアマチュア無線クラブはなく、水島さんはやむなく放送部に入部し、活躍する。同時に無線機の自作熱はますます高まり、本格的な挑戦を始める。すでにこのころには多くのハムは市販の無線機を買い求めるようになっていた。「作ることが楽しかった」と言う水島さんは、まず、FDAM−3に接続して出力増を図るリニアアンプの製作に取り組んだ。

[ようやく自作でQSO]

当然、真空管を使った作品であり、出力は10W程度。「マンションのベランダアンテナでは飛びが悪かったので作ることになった」のが目的。リニアアンプは完成し、少しは遠くの局との交信に貢献したが「一度成功するとそこまで。次のテーマを探す」ことが水島さんらしい。次いで取り組んだのが50MHzのAMリグ。

このころには技術知識も豊かになっており、さしたるトラブルなしに完成。ローカルとの交信に使っていた。最初は送受信部がバラバラだったが一つのケースに入れトランシーバとして完成させる。次いでVFOが欲しくなり、これも自作。「満足にQSOができるFDAM−3があったので、安心して自作を楽しめた。送信機、変調機、受信機、電源と、まずバラバラで作って、それを組み合わせてね。自作時代の先輩達の道筋をたどってみたくなったのかな」と言う。

[長岡京市アマチュア無線クラブ]

学校では放送部、自宅では無線機自作や写真に取り組む毎日だった。写真は撮影したフィルムの現像、印画紙への焼き付け、引き伸ばしまで手がけた。一方、校内では徐々に活躍の場が広がっていく。三年生になると「放送部長」「体育委員長」となり、秋の文化祭の時には「文化祭実行委員長」となる。当時を振り返って水島さんは「目立ちがり屋だったから」というが、挑戦心と行動力のある水島さんに人望があったのが実情らしい。

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50MHz、AM送信機を自作して交信

高校には無線クラブがなかったが、地元の長岡京市には設立されたばかりの「長岡京市アマチュア無線クラブ(クラブ局=JF3YMR)」があり入会。昭和47年(1972年)クラブは長岡京市の市制10周年を記念しアワードを発行することになった。「記念QSLカードを申し込んだところ、単位が1000枚。半年の期間に夢中になって交信して消化した」と言う。

その後、水島さんは地域クラブには所属していなかったため、このクラブが始めてで最後となっている。「最盛時にはメンバーは40名を超え、移動運用などクラブ行事も多く活動は活発だった。年齢的には若手の方だった」と、と当時の思い出を語る。

[進学]

無線機の自作に熱中したころ、水島さんは「将来はエレクトロニクスの技術者か通信士になろうと考えていた」と言う。しかし、大学への進学が近づいてくると「コンピューター関係の仕事をしたくなった」と変心する。コンピューターがあらゆる場所で活躍し始めていたことや「趣味を仕事にしたくなかった」という思いがあったからである。

このため、大阪工業大学電子工学科と大阪電気通信大学経営工学科に合格すると、経営工学科に進学する道を選ぶ。当時は大形コンピューターの時代。大手企業は巨額の投資を行なってコンピューター化を推進しており、コンピューター技術者には華々しい将来があるとみられていた。水島さんが経営工学科を選択したのには、そのような理由があった。父親も、その進路に賛成してくれた。

進学した水島さんはしかし、学内にあったアマチュア無線クラブには入部しなかった。「通信の学校でいまさら無線もないさ」という気分だった。このときの関心は車に向かい、せっせとアルバイトをして「ブルーバード510SSS」を中古で見つけて乗っていた。そのころの思い出は「オイルショックでガソリン代が高騰し苦しかった」ことと「故障がしょっちゅう。路上修理は常だったこと」である。