[留年決定]

アルバイトに熱中し、中古車を買い換えては遊び回っていた水島さんにその“ツケ”が回ってきた。2年生の終わりに水島さんは早くも4年間では卒業が不可能となり「留年」が決まる。当時の大阪電通大は他の大学と異なり2年までの一般教養課程の単位不足で進級が不可能となるシステムであった。

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大阪電通大で消費動向調査に多忙だった水島さん

予測していた水島さんではあったが、留年が決定した時点で、校内の公衆電話から勤め先の父親に電話し、留年となったことを伝える。学費を出してもらっている親のことがまず頭をよぎったからである。「叱られるかと思ったが、父は一言“そうか”で電話を切った。ほっとしたがそれがかえってつらかった」とその時のことを語る。

[PLL/SSB自作に挑戦]

アマチュア無線も「1年から2年にかけては、時々ローカルと交信する程度でほとんど活動しなかった」水島さんは3年生になると「急に自作の虫が騒いできた」と言い、再びハンダこてを持ちICやトランジスターと取り組み始める。自作はあえて難解な回路への挑戦であった。

「PLL(フェーズ・ロックド・ループ)の記事を雑誌で読み、作ってみたくなった」水島さんはPLLを採用した430MHzのSSBトランシーバづくりに挑む。高校のとき作ったVFOで発振周波数を安定させることに苦労したため「水晶と同じ安定度になるPLL回路をSSBトランシーバに使いたくなった」からだった。

[難しかったPLLの自作]

アマチュア無線機は、昭和30年代半ばころからSSBモードが使われ始め、当時は自作が主流のため、多くのハムがSSB回路作りに取組み出した。しかし、成功する人は少なく結局はしばらくして販売が始まったメーカー製の無線機に買い替えている。ベテランハムの多くが「SSB回路を完成できなかったのを契機に自作を止めた」経験を持っている。

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地元・長岡京市アマチュア無線クラブの行事で。左端が水島さん

一方のPLLは自作の時代が終わったころに生まれた技術であり、水島さんはアイコムのIC−551の回路を参考にしての自作に挑戦した。IC−551は昭和54年(1979年)に発売された50MHz、オールモードの固定機。アイコムが開発したカスタムLSIを使用したデジタルPLL回路を採用していた。そのLSIなしのディスクリート部品での回路づくりは水島さんなりに難航を極め、作って一度QSOしたあとは改良の繰り返しだった。

水島さんは、そのころのことを「自作にこだわったのは何とかしてメーカーの製品に勝ちたかったからだった」と説明する。この連載の途中でアイコムのデジタルPLL開発の経緯と、さらにその回路が特許であったことを初めて知り「そうだったのか。特許だったのですか。無謀な挑戦をしていたわけだったか」苦笑している。

[消費行動調査]

大学時代の強烈な思い出は卒業までの1年間にわたり取り組んだ「消費者の買い物行動調査」であった。担当教授は、道路標識の実効調査などを手がけ、その分野での権威でもあった石桁正士・現名誉教授であった。水島さんが卒業研究で悩んでいると、あるスーパーマーケットから依頼されている委託調査をテーマにすることを勧められた。

売り場での消費者の動きを調べるものであるが「商品コーナーの配置、通路の配置や幅、プライスカードに対する反応。試食と実買との関係、消費者の年齢と購入額、子供連れはどのような行動をとるかなど、カメラ撮影も含めて徹底的に調査した。おもしろかったが、同時に事実を正確に調査する必要があり、きびしく指導を受けた」と言う。

[卒業/就職]

昭和53年、5年かかった大学を卒業し、オッペン化粧品に就職し電算室勤務となる。水島さんの大学時代は大型コンピューターからパソコンへの転換期であった。パソコンはまだ「マイコン」と呼ばれ、ボードを手作りしベーシック言語でプログラムを組まなければならなかったが、小遣の使い道の多い水島さんは挑戦できなかった。

オッペン化粧品では当然のことながら大型コンピューターを使っての仕事を続けていたが、やがて、パソコンの時代がやってくる。全国にある支店が事務処理用のパソコンを導入することになると、その設置、操作指導に出張の日々が続く。「実に多忙であった」と言うが、その合間にはアマ無線のほか「スキーに狂った」生活でもあった。

[結婚]

車も中古を次々と買い換え「フェアレディZ」から「サニーGX5」へと代り、山陰、信州、時には北海道へと「年間30回も滑りに行った」らしい。地元クラブの移動運用には車の屋根にアンテナや部材を満載して出かけてもいる。アマ無線では引き続き自作を続け、430MHz SSBトランシーバと入力200Wのリニアアンプの自作に取組んだ。

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何度も買い換えた車に機材を満載して移動運用に向う

大学時代に、すでに水島さんは2級アマ無線に合格しており「自作ですべてを揃え出力50WでDXにも挑戦した。このころがもっとも交信局数が多かった」と振り返る。昭和60年(1985年)岡礼子(JM3ISB)さんと社内結婚。アマ無線からはしばらく遠ざかり、スキー、ドライブに夢中となり、加えてこのころからオートバイにものめり込む。

結婚を契機に、長岡京市に隣接している大阪府の島本町にマンションを購入して転居。「賃借する計画であったが、計算してみると購入してしまった方が経済的なことが分ったから」であった。土地を中心とした「バブル経済」が始まる少し前であった。