[RBBSに挑戦]

昭和62年(1987年)水島さんは富士通のFMパソコンを使ったRBBS(ラジオ・ブリティン・ボード・システム)ソフトを開発してトライアルを始める。すでにハムによるRBBSは広く普及していたが「他との差別化を図りたかった」と水島さんはオッペン化粧品社内で開発を経験したFMパソコンで挑戦した。

BBSは「電子掲示板」と呼ばれ、現在ではインターネットの普及にともない広範に普及しているが、RBBSは伝送にアマチュア無線のパケット通信を利用している。初期のパケット通信は1970年代に始められていたが、米国アリゾナ州のアマチュア無線グループTAPR(ツーソン・アマチュア・パケット・ラジオ)がARRL(米国アマチュア無線連盟)と共同で世界標準を目指した規格づくりを開始した。

TAPRは決定した規格「AX.25プロトコル」の通信実現をねらい1981年にTNC(ターミナル・ノード・コントローラー)を開発、翌年6月に実用化に成功している。その後、改良版のTNC−2が開発されて、日本にも同規格が伝わり、いくつかのアマチュア無線グループがTNCの可能性を見いだし、1984年ころにはパケット通信の利用が始まっていた。

[VAP−NET構築]

水島さんがパケット通信に触れたのもそのころであった。住んでいた大阪府島本町から淀川を挟んで東南側に位置する枚方市のハムと交信していると「パケット通信がおもしろい」と言われたが、水島さんは「パケット通信がどんなものか知らなかった」と言う。しかし無線とパソコンを接続して文字が伝送できるらしいことを知り、興味をもつ。

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VAP−NETクラブ(JJ3YCW)の行事で。左端か水島さん

水島さんはコントローラTNC−2を購入し、パケット通信をやってみた。「チャット(文字でのおしゃべり)をやってみて、次にRBBSを見てみた。なかなかおもしろい。しかし、自分がRBBSの主宰者になったらもっと楽しいだろうな」と考える。そして「どうせやるなら、賑わいあるRBBSにしたい。そのためには、他にないRBBSを構築して差別化する必要がある」と、富士通のFMパソコンの利用を思いつく。当時はNECのPC−98パソコンによるRBBSがほとんどだった。

ほとんどのハムが自作をやめた後も回路の研究を続けてきた。一方のパソコンは仕事を通じて情報を入手しやすい。水島さんにとっては、FMパソコン用ソフトの制作はそれほど難しくなかった。半年で組み上げ、交信のついでにハム仲間に知らせると、まず、奈良県五條市の山本陽一(JR3EOX)さんからコンタクトがあった。

[RBBSどうしを転送]

その時の状況は山本さんが後にホームページ「VAP−NET」に書いている。それを引用すると「(水島さんは)当時少数派だったFMパソコンの情報を専門に扱うRBBSとして“富士通FMパソコンの専門店”という看板を掲げておりました。当初、JA3VAP−RBBSだけで稼働させていましたが、同じ富士通ユーザーだった私(山本)も始め、2つのRBBS同士を転送で結ぶようになりました」。この2つのRBBSをVAP−NETと名付けた。

VAP−NETに次ぎに加わったのは奈良育英高校のアマチュア無線クラブ(JA3YTF)顧問の菊一好史(JF3KRL)さんだった。当時、菊一さんもFMパソコンユーザーであったが、RBBSをやりたくともソフトがないためあきらめていた。それを救ってくれたのが水島さんの開発したソフトであり、VAP−NETに加わってきた。

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水島さんのマンション屋上に建てたアンテナ

奈良育英高校ではクラブの多くの生徒やOBそしてOGがVAP−NETにアクセスを始めた。奈良育英高校では、パソコンとアマ無線を組み合わせた楽しみ方を考えていたところだったので、これで学校のクラブ活動に弾みがつく。当時のことを菊一さんは「VAP−NETへの参加が、校内活動に好影響をもたらし、それは20年経過した今でも続いています」と述べている。

奈良育英高校の参加でVAP−NETは書き込みに活気がつき、さらに近畿1円に拡大していった。水島さんは自局を「本店」と名付け、他のホスト局には「支店」という名前を付けている。「富士通FMパソコンの専門店」と名付けたことからだったが、最終的には、滋賀県の守山、大津、京都市、大阪府の島本町、堺市、奈良県の奈良市、五条市、兵庫県の明石市、赤穂市の8支店が出来上がった。

[ソフト開発続く]

当初はFM−11のパソコンを使い、OS−9のマルチタスクOSで水島さんが開発した独自のソフトを使い動作させていたが、転送の輪の拡大にともない、水島さんは富士通のMS−DOS機であるFM-16βやDOS/V機でも動作可能にしていった。更にWindowsNT、さらにOS2/Warpでも動作出来るように移植された。

[VAP−NETの発展]

VAP−NETは相互に転送を行う「中規模転送系」のネットとして発展してきたが、山本さんがホームページで指摘している通り「アマチュア無線の新しい楽しみを求め、研究心を忘れず、そして常に知的生産の場でありたい、そんな願いを込めた」集りだった。その理由として水島さんは「少数派のFMパソコンをRBBSホストに使ったため、無計画にネットワークが拡大されなかった」ことを理由にあげている。

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VAP−NET守山店のメンバー

やがて、VAP−NETはJARL登録のクラブとなるが、代表者を務めた水島さんのリーダーシップのために「結束の固い」クラブとなった。このため「この時に出来あがった人の輪は、20年経った現在でもつながっており、メンバーの仕事や生活の中で生かされている」と今振り返っている。