「活発な活動」

VAP−NETのクラブとしてのメンバーは、最終的に50名を突破した程度であったが、その運営も活動も他の同様なネットと比較して整然としたものであった。その理由として水島さんは「“VAP−NETガイドライン”を作ったことが大きかった。どんな書き込みがふさわしいかを討議し、ものさしを作った」という。このため、BBSやRBBSにありがちな中傷誹謗の内容は皆無だった。

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平成10年度のVAP−NET総会、右が水島さん

また、運営資金は「金があるといろいろ問題が起こる。運営資金は不足するくらいにして、何かあれば必要に応じて寄付や徴集するようにするのが良い、という意見があり、それに従ったことも整然とした集りになった理由」と説明する。このような運営方針がメンバーから出されてより良いネットに育っていった。

したがって、クラブの総会などは飲食を目的にした懇親会ではなく、運営について熱心に討議する場となっていた。現在でもインターネット上のVAP−NETのホームページのお蔭で、何回かのクラブ総会の議事録を散見出来る。前年度の事業・決算報告、新年度の事業計画・決算案の審議は当然として、クラブ運営について熱心に討議している様子がよく分る。

各支店も積極的に運用に対する意見を出し、一時は過去の書き込みをCD−ROMに落とそうとの発案も出るほどの熱中振りであった。さらに、内外に対しても公平を期している。ある時、RBBSホスト局に特定メーカーのリグの提案があった際は「特定メーカーの機器を使用しないと実現しないようでは設置を見合わせる」と却下されている。

[クラブコンテスト10位入賞]

やがて、ジャンル別のボードが生まれ、ジャンル別グループによる対外的な活動が始まった。私鉄の車両工場や航空会社の格納庫の見学を実施したり、手持ちの無線機を持ち寄って性能比較なども行なった。VAP−NETを通じて知り合ったマッキントッシュユーザのクラブができたのもこの頃である。

あるとき、コンテスト好きのひとりのユーザーが、JARL主催コンテストのクラブ対抗順位をVAP−NETメンバーで競ったらどうだろうか、という提案がRBBS上で出された。すかさず賛同者が多数出て、VAP−NETクラブは特殊クラブとしてJARL登録クラブとなった。登録先は、当時水島さんの自宅があった滋賀県支部である。RBBSで作戦会議やノウハウ交換をしながら数年の挑戦をへて、平成10年(1998年)には全国順位で10位の成績を残した。

このコンテスト参加を機会に水島さんはアマ無線1級を取得し、次いで1kWの免許を得ている。「コンテストで上位入賞を果たすために、増力して貢献したかったのが第一目的」といい、「実は第二の理由は試験科目から和文の電信が無くなったから」と笑う。郵政省は平成8年(1996年)4月に1級の試験から和文の試験を削除していた。水島さんが1級を取得したのは平成9年(1997年)であった。

[阪神・淡路大震災]

平成7年(1995年)思いもよらぬ大地震が神戸市を中心に起きた。しばらくの間、被災地区の空は沈黙してしまった。当然のことである。家の火災・倒壊、道路の寸断、電気・水道・ガスなどのライフラインの不通。被災地では被害を受けなかったハムは周辺の救援に回った。無線機を働かせる余裕は無いからである。仮に働かそうにも無線機がつぶれたり、家財の下に埋もれてしまい取り出せないハムも少なくなかった。

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近畿電鉄の工場見学

VAP−NETも被災地に近い「明石支店」が被害を受けて停止してしまった。VAP−NETとして、何らかの役に立ちたいと専用ボードを立ち上げるとともに、JARL兵庫県支部長の我孫子達(JH3GXF)さんに連絡をし「なにかお手伝いすることがありますか」と聞いた。「ところがそれが失敗でした」と水島さんは反省している。

被災地の住民は情報の無いなか、必死になって連絡や復旧に不眠不休で取り組んでいる。そこに多くのボランティアが訪れる。「何を手伝いましょう、と聞くこと自体が現地の人の邪魔になるんです」と、JARL関西地方本部の長谷川良彦(JA3HXJ)さんは震災の後に語っている。水島さんはこの時、アマチュア無線機で文字も画像も伝送できるデジタル化の必要性を強く感じている。

[インターネットへの対応とVAP−NETの終焉]

やがて、VAP−NETも時代の変化に対応せざるを得なくなる。世界的な情報伝送網であるインターネットの普及である。VAP−NETも平成7年(1995年)ころからインターネット接続の試験運用を開始していたが、平成10年(1998年)の総会で「ユーザ確保のため、インターネットを通じたVAP−NETへのアクセス方法を進める」ことを決めている。

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VAP−NET10周年の記念大会

事実、ユーザーの興味はパケット通信から次第にインターネットを使った情報伝達に移った。RBBSにとって生命である、書き込みが次第に減少し、ユーザーが離れていく。その結果書き込みの減少をさらに招き、VAP−NETは次第に淋しくなってきた。RBBSは維持するだけでも手間がかかる。近畿地方に最大8つの「支店」を抱えていたが、次第に閉鎖する支店が出てきた。

水島さんは、RBBSの役割は終了したと判断する。平成16年(2004年)1月に開かれた総会ではVAP―NETを3月末で停止することを決める。その後、余韻を惜しむかのようなほんのわずかな期間、稼働を続けたものの、昭和62年(1987年)に発足したVAP−NETは16年間の役割を終えた。

水島さんは、これまでのハム生活の中で「リグの自作にも挑戦したが、VAP−NETの構築が今日の自分を作り上げた最大の事柄」と言う。このネットを作り運営してきたことが、その後のさまざまな挑戦につながり、そして人脈づくりに役立ったからである。そして「もし、VAP−NETを手がけていなかったらアマチュア無線をやめていたと思う」とまで言う。