[転職]

VAP−NETの運営をしながらも水島さんの生活は慌ただしかった。平成3年(1991年)に滋賀県志賀町(現大津市)に転居し、翌年に転職している。13年間勤めたオッペン化粧品を辞めて移ったのはシステム開発会社の「ユニバーサルコンピューター」であった。オッペン化粧品時代にもコンピューターの仕事に携わっていたが、水島さんはシステム開発を最前線にした仕事に携わりたかったのが転職理由であった。

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VAP−NETが実施したジャンク市

転職は家族のある水島さんにとっては大きな決断である。ハム仲間が転職先を調べてくれた。「規模は中堅どころ。意欲的で業績も比較的良い」と教えてくれた。次いで、水島さんは母校の石桁先生に相談する。「奥さんはどう言っている。賛成ならば、その転職は半分は成功しているぞ。残りは君の努力と才覚だ」と助言してくれた。このひとことが水島さんの背中を押す。

[ユニバーサルコンピューター]

「ユニバーサルコンピューター」は、昭和49年(1974年)大阪で誕生。当初は電機メーカーの制御系システム開発からスタートし、現在では製造業を対象に生産管理、工程管理、在庫管理、物流システム、流通・サービスのシステムなどを中心に、幅広い分野のシステム開発を業務としている。

早くから東京にも進出し、大阪、東京の2本社制とし、現在の従業員数約400名のうち約半数が東京に在籍。大阪はビジネスセンターといわれているOBP(大阪ビジネスパーク)東京は丸ノ内に拠点をもつ。水島さんは大阪本社勤務からスタートした。現役のSE(システム・エンジニア)となった水島さんは、早速、業務提案をして注目される。

その提案は、「クライアント(顧客)を自ら開拓し、直接の受注を推進すべきである」というものであった。当時、業界の多くの会社の業務形態は同業の会社からの受注が主であった。水島さんは「直接、クライアントとつながることは、システム開発に必要な意志の疎通も明確となり、技術力も向上する」と考えていた。しかし、収益面ではリスクを伴うことと強力な人材を必要とすることが課題であった。

[上級SE研究会]

水島さんが入社しソフトウェア業界全体をみて感じたことは、SEの多くが現場を知らずにシステム開発を行っていることであった。特殊な技能をもつSEは、当然のことながらソフト開発の教育を受けて育ってきており、製造業や販売業などクライアント現場の経験が少ないことは当然であった。「ソフト開発にかけては優秀であるが、ユーザーの立場に立って考えたり、ユーザーやプロジェクトメンバーとの意思疎通が苦手な人が目立つ」と言う。

しかも、そのSEを育てる体制が確立していなかった。悩んだ水島さんは再び、石桁先生に相談する。先生は「それがSEの問題点である」とすでに水島さんの悩みを知っていた。先生は、その解決のために自ら産学共同の研究組織である「上級SE教育研究会」を立ち上げており「毎月の集りに参加したらどうか」と誘ってくれた。水島さんは二つ返事でメンバーに加わる。転職して間もない1993年の春のことであった

[SEに不可欠な総合能力]

社外の産学共同研究会「上級SE教育研究会」で、水島さんはSEに必要な能力とは何か、というテーマで他のメンバーと議論を重ねる。メンバーのほとんどが水島さんより年長であり、システム開発の業界では大先輩だ。「普段なら絶対に会話すらできない立場の方々でしたが、研究会の場では対等に扱っていただけたのが本当に嬉しかった」と語る。

その議論の末、SEには基盤能力が必要であることが分った。その能力とは単に扱う技術やクライアントの業務知識・経験だけでなく、それを支える論理思考力や洞察力、そして国語力にも及ぶことが判ってきた。「簡単にいうと相手が何をいっているのかを理解し、自分は何をしたいのかが正しく表現できること」ということである。

[SE開発の3ポイント]

研究会は、システムを作るには3つの考え方が必要という結論を出す。「まず、対象とするシステムにどのような立場の人がかかわるかを考える。これを“視座”と呼ぶ。次に、そのシステムの目のつけどころを出す。これを“視点”という。次いで、視座ごとに、何を最も大切に考えているかを洞察する。これを“価値観”と呼ぶ」という開発の3ポイントであった。

システム開発者としての「視座」とは異なる視座でシステム(ものごと)を考える能力が必要となってくるが、これを訓練し実践することでシステム作りを成功に導こうとするのである。研究会のメンバーは、これらの論点をまとめて書籍を数冊出版した。水島さんも共同執筆者として名を連ねる。「ひとりのサラリーマンが、自分の考え方を世の中に出せるなんて、望外な幸せですよ。いまも大きな書店に並んでますものね」と言う水島さんは、この出版を通じてサラリーマンの傍ら短大の非常勤講師に就く。

[アンテナタワー建て]

志賀町への転居はバブル経済が終えんするころであったが、それでもまだ余韻があり、住んでいた大阪府島本町のマンションが比較的高値で売れる時でもあった。「スキー場の近くの1戸建てに住み、アンテナタワーを建てたいという願いもあった」と言う。もっとも土地など不動産の価格は相対的なものであり「高く売れても、買うのも高かった」と、望んだ土地の広さは入手できなかったらしい。

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志賀町の自宅のアンテナ建てでは大勢の仲間が手伝った

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アンテナが立ちあがり、全員で記念撮影

いずれにしても待望のアンテナタワーを建てることになり、VAP−NETの仲間が休日のたび手伝いに来てくれた。VAP−NETが最盛期のころであり、水島さんはここを拠点にNET運用に力を入れたが、次ぎの大きなアマチュア無線への貢献をしなければならない活動が図らずもやってきていた。(つづく)