[メール転送サービス]

開始に当たり規約とガイドラインを決めたが、問題はコールサインだけではJARLの会員であるかが分らないこと。このため、会員証のコピーを申し込み書に貼り、SASE(返信用封筒)を添付してもらうようにした。郵送による返信は間違いなく本人かどうかの確認と、将来の利用を考慮してパスワード連絡のためでもあった。

転送サービスは、平成11年(1999年)1月から開始されたが「その前後にシステム上や制度上のトラブルがあったし、妨害らしい動きもあった。また一部のJARL理事に理解されなくて歯がゆい思いをした」と水島さんは言う。このサービスを便利にするためには、ひとりでも多くのアマチュア無線家の登録が必須だ。KDCFのメンバーはあらゆるアマチュア無線のイベントの機会を利用して、このサービスへの勧誘に奔走した。

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ハムフェアでのメール転送サービスの受け付け(2000年)

[申し込み/問い合わせ]

とにかく初めての試みであり、問い合わせも多く登録後のトラブルも少なくなかった。このサービスの仕組みは「jarl.com」宛のメールが、本来のプロバイダーによるアドレスに転送されるものであり、申し込み者からアドレスが正しく記入されていなければならなかった。誤ったアドレス、判読出来ないアドレスなどその都度、申し込み者と電話や郵便で連絡を取る必要があった。郵送による申込み受付と登録後の返送、登録内容の確認、登録後の変更対応など、これらの作業はすべてKDCFのスタッフが役割を分担してボラティアでおこなった。

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ハムフェア会場でのメール転送講演会(2000年)

[メールが届かない]

正確に登録されたかは「登録のお知らせ」を知らせるテストメールを打って確認される。相手に届かなければ、申込書と台帳を照合し間違いなければ、申し込み者のミスである。「登録お知らせメール」には「念のためにご自分のコールサイン宛にメールを打ってください」と書いているが、それを実行すると「リバウンド(送り返し)メールがくる」という登録者からの問い合わせがあった。「こちらからのメールは届いているのに、本人からのメールは届かない」ありえない事象に首をひねった。。

「慎重に調査するが原因は不明。自分宛にメールを送ることはまず無いため“実用上問題ありません”と答えておいたが・・・・」とスタッフは考えこむ。しばらくすると同じような問い合わせが何件か寄せられた。調べてみると、同じ会社に勤務している人たち。社内のメールシステムを調べてもらうと「自社サーバーからのメールは受け付けない」という社内通達が見つかった。KDCFスタッフには、このような経験を経て転送サービスのノウハウが蓄積されてゆく。

ボランティアでどこまでできるか]

また、メールアドレスを変更したために届かなくなることが、しばしば発生した。KDCFは数カ月に一度、システム上の変更などを案内するメールを登録者全員に送っていた。届いていない場合にはリバウンドメールが返ってくるが、これを一通ずつ拾いだし本人に直接連絡をとって正しいアドレスになるように変更してゆくのだ。「今から思えば気の遠くなるような作業だが、これがサービスの質を維持することにつながっていたと思う」と水島さんは語る。

しかも、KDCFの作業の合言葉は「クイックレスポンス」であった。「申請者の登録を出来る限り早くしたい。トラブルは即座に解決したい」と実行した努力も徐々に評価された。さらに、スパムメールが届かないようにサーバにフィルタをかけることもおこなった。これは新しいスパム源があらわれるたび、間髪入れずにフィルタ設定を変更するというスタッフの懸命な努力が実を結んだ。

しかし、このような懸命な対応努力に対して心ない応答をされることがあった。その一方で「このサービスのおかげで古くからの無線仲間と連絡がとれた」「メールが身近に感じるようになった」などとの感想を伺うとボランティアスタッフはがぜんヤル気を出した。「どこまでボランティアで高品質なサービスができるかという課題へ挑戦の気持ちもあった」と水島さんは言う。

[無料サービスに決定]

KDCFは当初、このサービスを維持管理するためには「多少の料金を徴収すべきかもしれない」と考えていたらしい。しかし、プロバイダーのなかには無料でメールアドレスを発給しているところもあることなどから無料に傾いていく。「JARL会員は無料だからこそ、JARLの存在価値がある」と水島さんらは考えた。

「会員は会費を払っている。それでこのサービスの維持管理費を賄えるようにするのが希望だった」水島さんらであったが、その後結果的にはその通りになった。1999年4月、申し込み件数はJARL会員の1.5%を超え、最初の数値目標である2000名の登録は1999年6月の「関西ハムの祭典」での受け付けで達成された。

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関ハム会場でのメール転送サービス受け付け(1999年)

[JARLへの移管]

2003年に入るとメール転送サービスの登録者は1万人を超えた。スタッフ間の連絡はメールと電話で行なっていたが、それでも年に一度は課題の検討などのため集まることがある。この頃は関西地方本部の事務局が閉鎖されていたため、会議する場所の確保もおこなう必要があった。各地にあった事務局はJARLの財政難のために平成11、2年に順次閉鎖されていった。

自前の会議場所が無くなると、会議するにも金がかかるようになった。「せめて、スタッフの交通費くらいは何とかなりませんか」と水島さんは長谷川本部長を通じてJARL本部に相談してもらった。それに対しJARL本部の返答は「メール転送サービスなどはJARL本部でおこなってはどうか」という提言だった。

水島さんは悩んだ。登録件数がこれから増えても、現在のスタッフやサーバで何とかやってゆけるという目論見はある。「当時、スタッフは、これからも会員向けサービスを支えることに意欲的だった。しかも周囲からは暖かい声援もあった。スタッフのおかげでJARLが行うサービスのなかでは、コストパフォーマンスは非常に高いと評価できる。」と考えていた。