[東京転勤]

平成11年(1999年)9月、水島さんにとっては大きな変化があった。大阪から東京への転勤であった。関西でのKDCFの活動は続いていたが「jarl.comのメール転送サービスは軌道に乗り、電子QSLシステムも目鼻がついていた時だった」と水島さんは言う。当時、力を入れていたのは高速デジタル通信であった。PRUGグループの動きをみて水島さんは「彼らの対応の早さに目を見張った」と感心している。

「KDCFも対応が早いグループであったが、PRUGは行動する人、やってみる人を評価する集りだった。理論を振りまわしたり、口先だけの仲間は信用されず、動くことで認められる集りだった」と言う。そのなかで、水島さんは「私自身はデジタルのことは良く分らなかったが、まず行動することにした。それが彼らから学んだ最大の成果」と振りかえる。

ところで東京への転勤は、「システム開発をさらに大きな市場でやってみたい」という水島さんの希望からであった。水島さんによると「関連ビジネスの市場は圧倒的に東京が大きく、しかも一件当たりの規模も大きい」と言う。振り返ると、水島さんにとって小学校3年生から2年間過ごした東京はほぼ35年ぶりであった。しかし、奥さんは滋賀で仕事を持っており、二人のお子さんはまだ小学生。やむなく単身赴任することになり、千葉県の市川市に転居した。

[東京という街]

東京から名古屋、そして、中学2年生で関西に移り住んで約30年。関西人になっている水島さんにとって東京は文化もビジネスも人々の気風もまったく異なっていた。「なんとなくビジネスライクであり、暇つぶしのような会話が少ない。関西では会って話しをしてビジネスが出来るが、関東では知的なビジネスであればあるほど、会う、会わないのメリハリがハッキリしている。しかもスピードが速い」と当初は面食らっている。

海外企業はまず東京に拠点を置く、海外からの情報は東京に集中する。「大阪には無い、良くいえば割り切った、表現を変えれば情が少なく、冗談が通じない東京に最初は違和感を感じた」らしい。ところが、それとは裏腹に「関西弁がビジネスに有効なこと」をすぐに知る。厳しいビジネスの会話のなかに、やさしく、相手を思いやる言葉が「緩衝剤的な役割を果たす」と理解した。

[短大の講師]

その東京で水島さんは大役を得る。短大の非常勤講師の職である。以前、発行した著書がきっかけとなり、いくつかの企業や公共団体から「企業のシステムエンジニアの育成」をテーマとした研修会の講師を依頼され、NTTや民間企業・公的機関に出かけ、講義をした。現場に強い水島さんの「理論を言わない生々しい教育」は好評となった。それが産業能率協会の講師に知られることとなり、産能短大の講師への紹介を受ける。

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水島さんら上級SE教育研究会発行の「上級SE心得ノート」

本来、副業は禁じられる筈だが、会社に相談すると「オマエのためにも、会社のためにもプラスになる」と許可が出る。そこで能率短大(現在は『自由が丘産能短大』と改称)の非常勤講師として、毎週土曜日の午前中、自由が丘キャンパスで教壇に立つようになる。東京に転勤した翌年のことである。

産業能率大学は戦前に民間企業のコンサルタントを始めた上野陽一さんが戦後の昭和38年(1963年)に短大通信教育課程を開設したのが前身であり、昭和54年(1979年)に産業能率大学を発足させている。その折に、わが国で始めての経営情報学部を設置したことで知られている。その後、短大、通信教育課程などを設けるとともに、キャンパスを自由が丘や代官山へと拡大した。ビジネスとつながる実践的な教育内容が特長であり、平成16年(2004年)には大学院MBA(経営学修士号)コースを設けている。水島さんの講師はその意味では最適であった。

[日経新聞のIT記事が分るレベル]

水島さんの講義は「難しい事柄を避けて、学生が独学できるレベルに育てることを目標としている」と言う。講義内容は、コンピューターの実務的基礎、インターネットの仕組み、システム開発の方法としているが、要は「日本経済新聞のIT関連の記事が理解できることを目標に」と考え、実践している。

先にも触れたが、水島さんは「システムエンジニアに対する体系的な教育が無いまま、今日に至っている」という不満をもつ。その理由は「政府が1967年に出した白書のなかに『やがてシステムエンジニアが50万人不足する時代が到来する』とあり、多くのシステム開発会社は採用した社員に満足な教育することなく、人件費に見合う売上げを上げることを第一義に考えて経営してきたから」と指摘する。その反省に立ち,水島さんには「基礎的な部分からの教育に撤したい」との思いがある。

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講師姿も板についた水島さんの授業

[D−STARとの出会い]

東京に転勤してほど無いある日、水島さんは東京の先進的なクラブのミーティングでKDCFの活動を紹介した。ミーティングが終わった後、ある人からJARL技術委員会にある次世代通信分科会へ参加の打診を受けた。水島さんは「この組織がどんなものか分らなかったが、関西で培ってきた経験や人脈が全国レベルで役立ってアマチュア無線の活性化に繋がるならば」と応諾した。この組織は、その後次世代通信委員会になり、D−STARの仕様を決めたり普及推進する組織へと発展していく。

デジタル通信に挑戦していた水島さんには、それ以前に業界のデジタル関連の情報は漠然と入っていた。「どうやら開発は総務省からの委託であり、JARLやJAIAがアマチュア無線界あげて取り組んでいるらしい。一部のグループがチャレンジしているのとはスケールが違うのだろう」と第三者の目で見ていた。