[来る日も来る日もノイズばかり]

「来る日も来る日もノイズのみで、隣接バンドの航空無線などを頼りに2mバンドの所在を確かめ、受信を続けました」と、関森さんは約20年前のアマチュア無線雑誌に思い出を寄稿している。JARLのSWLに登録しJA3-1130の俗に言う「SWLナンバー」で受信にBCLにVHFLに熱中した。この思い出は昭和30年(1955年)のころのことで、今、思えばサイクル19の太陽黒点の上昇期であったようだ。

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昭和34年発行のSWLとしてのJARL会員証

戦後、アマチュア無線は昭和27年(1952年)に予備免許が30名に下りたのを皮切りに再開されたが殆どA3、CWで短波帯はスポット周波数でありVHF帯の50MHz、なかでも144MHzでの交信ハムは黎明期であり実験する人も殆どいなかった。このため、JARLはVHFコンテストを企画実施するなどその活用推進を図っている。SWLであった関森さんはHFにあき足らずこの電波の少ない144MHz受信に熱中していた。

[JA2の交信受信]

SWLで関森さんは実践的な電気、無線機の技術知識を身につけてARRLのVHFハンドブックを参考にしつつ自作に励んだ。もっとも、メーカーにより無線機の生産そして市販が始まったのは昭和30年になってからであり、市販品が盛んに使われ出したのは40年代になってからであった。

関森さんもミニチュア真空管式の144MHzクリスタルコンバーターを作り、当時、最高級機のRCA社製AR88の受信機に接続。一方、大阪谷町の問屋さんでアルミパイプを仕入れて5エレメント垂直八木や4エレメント4段の水平八木型ビームのアンテナを自作しアメリカジャンク品のモーターを五階百貨店で買いローテーターにて屋根をぶち抜き回転させたが雨漏りに困ったと聞いている。

「ノイズばかり聞いたがこのローノイズクリコンで,東京の羽田空港と大島周辺を飛行する航空機の交信を受信できたため、いつかはハムも聞こえる、と期待していた」と言う。そして、昭和32年5月、JA2のコンテスト参加局同士のA3電波をとらえる。「鈴鹿山脈を飛び越えてきたものであるが、50MHzで初めて海外の局を聞いた時以来の感激だった」と当時を語る。

[愛日尋常小学校]

関森さんが生まれたのは大正15年(1926年)10月。大阪・西区の阿弥陀池だった。父親は貿易商を営み両親と姉妹の5人家族はやがて、西船場京堀に移住する。そこで[なにわ商人]の代名詞でもある「船場」の子弟が通う幼稚園そして小学校に入る。幼稚園は船場北部にあった「愛珠(あいしゅ)幼稚園」だった。園名は「主人花を愛すること、珠を愛するが如し。幼子もまた掌中の珠として愛する」から名づけられたといわれる。

設立は明治13年(1880年)。地元の連合会により生まれ、わが国では3番目に古く、明確幼児教育思想をもったものとしては初めてといわれる。現在の園舎は明治34年(1901年)に建てられ、太平洋戦争中の取り壊しが免れている。近くにはかつての「銅座」や緒方洪庵の「適塾」さらには種痘事業を行った「種痘館跡」などがある。

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残されている愛珠幼稚園の門

小学校も伝統ある[愛日(あいじつ)尋常小学校]に通う。東区の淀屋橋近くにあった同校は明治5年(1873年)に設立され時代とともに変遷を続け、やがて周辺の6校とともに3校に集約され、さらに戦後の昭和22年(1947年)に「愛日」と「集英」の2校へと統合された後、平成17年(2005年)に閉鎖、取り壊された。

都市部の人口減にともなう生徒数の減少のためであるが、歴史のある同校の最後は多くの卒業生らに惜しまれる盛大な惜別式となった。大阪とは関係がないが同じ「愛日国民学校」が東京・新宿区にもあったが、こちらは昭和21年の学制改革のころに閉鎖されている。このように有力幼稚園、小学校に通った関森さんであるが、多くのハムがすごした「工作少年時代」や「ラジオ少年」時代はなかった。

[商業学校に入学]

卒業後は中学(旧制中学)に進学せず「貿易商を継ぐのには商業学校が良いだろう」との父親の勧めで布施市にあった日新商業に進む。大正13年に布施市内に設立された同校は生徒数の増大にともない後、東大阪市立となり移転したが、野球の名門校であり浪商、興国、京阪各校とともに甲子園出場校として知られていた。0Bに往年の阪神タイガースの名選手もいた。しかし関森さんは「肩を痛め軟式野球に転向し草野球に熱中した」と言う。

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関森少年12歳のころ

貿易商であったために「家の物入れに真空管ラジオ、蝋管蓄音機などいろいろなものがあり、触っては父親に叱られた記憶がある」と言う。戦前の少年は「何とかラジオを聞きたい」と思い、製作してラジオ少年になったケースが多い。しかし、当時は物に恵まれていると逆に工作欲が沸かなかったためか、また野球に夢中になったためか関森さんはラジオ工作に余り興味を持たなかった。

[陸軍航空特別幹部候補生]

飛行機大好き少年で学校時代には閑があれば八尾飛行場(昔は大正飛行場と言う)に97式戦闘機を見にいっていた。この時期すでに太平洋戦争が始まっており、しかも戦況が思わしくなくなってきたことから、卒業は1年早い「繰り上げ」となり、、大東市の「城東工業」に通う。「そこの電気科別科に入り、1年間ではあったが電気の教育を受けた」と言う。その後、現在の松下電工である松下航空工業に就職。そこで工作機械、電気技術を身に着けた。

後に、この教育が関森さんの趣味を開花させるが、それまではさらに期間がある。昭和19年(1944年)3月、関森さんは進んで「陸軍航空特別候補生」志願して第7航空通信聯隊、中部第128部隊に入隊する。この隊は三重県斎宮村にあり「師550」部隊とも称されていた。飛行操縦希望の関森さんは甲種幹部候補生に合格、そこで大学よりの入隊者と合流した、しかし、戦況は不利になり近くの山中に退避し士官学校入校待機の時に終戦を迎えている。