[幻の航空通信連隊]

関森さんが入隊した「第7航空通信連隊」は、太平洋戦争開始約1年後の昭和17年(1942年)12月に全容が整ったと言われているが、兵舎、通信棟、練兵場、機材工場などの設備建設は、日中戦争が開始された昭和12年(1937年)から始められ、当時の最新鋭通信設備が設けられたらしい。ところが、昭和20年(1945年)6月、終戦を前に突如廃止され、その詳細が不明なため「幻の航空通信連隊」とも言われている。

関森さんは「航空操縦志望を強く申告していたため通信教育は受けず、近くの明野飛行学校で訓練したりした」と言うが、すでに、終戦間近であり空襲を受けて、兵舎も山側の場所に退避して、行き来するうちに終戦を迎えたらしい。関森さん自身も「その後、編成替えがあり入校待機と言われて訳がわからないまま過ごした」と記憶を語っている。

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「師550部隊」斎宮隊 後列左から3人目が関森さん

[父親の死・財産を失う]

戦時中、父親や家族は空襲を避けて奈良市に疎開していた。この時、病気で父親は他界したが在隊中のため関森さんは帰宅出来なかった。大阪大空襲の焼夷弾攻撃で市内の建て屋は焼失し焼け野原となったが、関森さんの所有していた土地も焼失し家業も財産もなくなっていた。戦後「志願して軍隊に入ったために松下にも復帰がかなわなかった」と言う。

関森さんは改めて「教育を受けて戦後の日本のために貢献しよう」との強い決意を持ち、現在の立命館大学の前身である「立命館専門学校」法科に入学する。立命館は京都の広小路にあり講師は京大とほとんど同じであり、優秀な学校であった。法科を選んだのは「日本の再建のためには人材が必要であり、人づくりには法律をしっかり学んでおくことが必要」との考えからだった。

「アルバイト」

関森さんの大学生時代は戦後の混乱期のなかにあった。そもそも、同学年の学生の年齢でさえ大きな幅があった。在学中に徴兵で兵役に就き、戦後復学した学生や改めて他校に入学し直した学生のなかには20代半ばの先輩もいた。兵役に就かないまでも戦後の学制改革により、旧制中学が新制高校に変わったために、そこでも年齢の差ができていた。

当時の大学内の様子では「生死の境を経験してきた特攻(特別攻撃隊員)崩れは、校内でも荒れまくっていた」という記述が多い。しかし、関森さんは学資稼ぎのために授業の間にアルバイトに精を出した。その一つが電気工事であり大阪梅田駅前のバラック街の工事が多かった「日本橋に工事に使う電材を仕入れに行き、工事を手がけたが、収入は多かった」と言う。

[5階百貨店]

また、この仕事を通じて電気関係の人と知りあった。そのなかには戦前のハムの方もおりアマチュア無線の面白さを聞かされた」こともあった。この時、ジャンク物を揃えている「五階百貨店」の常連になった。日本橋4丁目にあった「五階百貨店」は、明治21年(1888年)に建設された大阪市内では初の高層建築であり、当初は「眺望閣」として、見晴らしの良い展望が売り物であった。六甲山、淡路島が見渡せる建て屋として人気を集めたが、明治30年(1897年)に何でも扱う百貨店となった。

しかし、戦時中の空襲で焼失した。戦後、復興を目指した人たちは資金の関係から取りあえず3階建てとし、順次5階にしようと計画したが、未だにそのままになっている、といわれている。したがって、3階建てながら「5階」と書かれた大きな看板がかかっているのが“愛嬌”であるが、中古品、道具類を商っているのは変わりない。このころ関森さんは旧国軍、米軍の無線機を日本橋で買い漁っている。

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現在の「5階百貨店」

[健保組合の事務職]

しばらくすると「大阪食糧公団健康保険組合」から「あなたは法律にも詳しい。卒業したらぜひ来て欲しい」と招聘があり、将来は検事か弁護士と考えていた関森さんは「時間外アルバイトでお世話になった恩返しで腰掛けのつもりで就職してみると、いきなり事務長を引き受けさせられた」と言う。昭和24年(1948年)5月である。

「大阪食糧公団といかめしいが、要はお米やさんの健康保険組合であり、これが私の将来の医療の仕事を決めることになった」と振り返る。健保組合は西区阿波座に事務所と東区丼池の衣料品卸店町の真ん中に診療所を持っていた。この小さな診療所が売却され後々南区大宝寺町の長堀病院に変身する。この五階建ての病院はその頃堺筋に面した丸善石油(株)の東に建っていた。ちなみにこの会社は、現福田首相が政界入り前に10数年勤務されていて有名である。

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関森さんは「大阪食糧公団健保組合」でも野球に熱中する

[外部機構の役員]

その組合での働きが認められ、業界の関連部門にも引き出され「健康保険組合連合会理事」さらに「大阪中央病院運営委員」に選出される。この2つの組織は実は関連している。「けんぽれん」で知られている「健康保険組合連合会」は、全国の健康保険組合が加入している団体であるが、全国で唯一、大阪だけに直営病院があり、それが「大阪中央病院」である。

やや細かなことを書き続けるが「健康保険組合連合会」は昭和18年に「健康保険法」が改正されたのにともない発足したが、太平洋戦争後半に行われた産業・事業の合理化策である「事業統制」の一環で出来た組織でもあった。翌年、大阪連合会が医療機関不足に対処して大同生命傘下の「大同病院」を買収して直営としたのが「大阪中央病院」である。