[松下電器健保からのスカウト]

「連合会理事」「病院運営委員」での活動を通じて知己が増え、親しい同業者が出来たある日、関森さんは松下電器の健康保険組合から「うちの組合に来ないか考えて欲しい 」 と言われる。 「日頃のあなたの活動ぶりは承知しているし、一時的にも松下グループで働いたこともある人であるからぜひ来て欲しい」と口説かれる。

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関森さんの昭和31年当時

関森さんに白羽の矢が立ったのにはもう一つ理由があった。松下電器は職域病院として「松下病院」を抱えており、その運営を松下電器が行っていたが、当時の松下幸之助相談役は「餅は餅屋に任せたほうが良い。健保組合が運営しなさい」との方針を打ち出した。そこで、松下電器からの出向者による管理を中止し、医療運営管理が出来る人材を捜していたのだった。

関森さんは「松下電器といえば大企業。ありがたい話であるが条件をはっきりさせる必要があり、条件などを詰めた。さすが大企業であり優遇される内容だったと思った」と言う。昭和39年10月、松下健保組合に入社。「驚いたのは初めての外部からの採用だったこと」と言う。

[松下記念病院]

ところが、指示されたのは付属の松下記念病院の医療業務部長、病院事務部長、病院各課長を兼務し、同じく付属の看護専門学校講師をすることになり「さすがに松下さんは人使いが旨く厳しいと感じた」と当時を語る。同時に、松下幸之助相談役から「会社従業員はもちろんのこと住民の皆様も松下のお得意様であり地域に貢献するように」との話しを聞き深く感銘を受けたと当時を懐かしむ。

松下健保組合は、昭和12年(1937年)に設立されている。その後、松下電器の業容拡大にともない社員数が増加し、組合員も急増。また、昭和15年(1940年)に職域病院として設立された松下病院も、総合病院となり地域の医療機関として国内でも知られる規模となる。

関森さんは医療業務部長として定年を迎えた昭和61年(1986年)まで勤務。その後は常勤嘱託を務めた。なお、現在では病院は松下記念病院に名を変えている。関森さんの業績で特筆すべきは、優れた病院長、専門医を招聘したことであり、また、総合病院として必須の痲酔科を大阪医大故兵藤教授、眼科を関西医大の宇山教授の支援を得て開設に成功し「臨床教育研修指定病院」としたことだった。

[車改造]

関森さんは先に述べた通り、昭和30年にはSWLとなっていたが、それでもアマチュア無線免許に興味がなかったのは「車に狂っていたため」と言う。「車は戦時中、飛行機のメカをいじっていたことから病み付きとなった」らしい。したがって、単なるドライブ好きではなく、内部を合法的に改造してしまうほどのマニアである。

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関森さんは車の改造に熱中した

昭和25年(1950年)に勃発した「朝鮮戦争」にともない、戦争により疲弊したわが国の産業・経済も回復し、その後の「高度経済成長」の道を辿ることになるが、その波に乗リ、昭和30年代になると、車を乗り回すことがステータスとなっていく。「毎週、休みになると市販車のカーレースやジムカーナが行われていた。それに勝つためにはいかにスピードが出て足回りの良い車に改造するかが重要だった」と言う。

[ジムカーナ]とは、S字の連続したコースを設定してタイムを競うものであるが、関森さんも休みのたびに熱中し、関森さんの車改造ぶりは車の専門紙に紹介されたほどであった。それによると、当時のいすゞ自動車の「ベレット」を改造した時は「エンジンはDOHCの1600ccのGTタイプ、キャブレーターはソレックス」チューンアップして守口市のいすゞモータースでシャーシーダイナモメーターにかけた。

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いすゞ自動車のベレット

[スポーツカーを追い抜く]

「シャーシーダイナモメーター」は、後輪をローラーに載せて回転させることにより、実走行状態を再現し、エンジンの発生する馬力を測定するもので、パワーアップ150馬力を実測している。さらに「それに合わせて各部、足回りの補強をした」と書かれている。

そして、ある時は「スピード違反かもしれないが名神をフルスロットで走るスポーツカーを軽く抜き去って、インターチェンジで休憩していると若者達に囲まれて、エンジンを見せて欲しいとせがまれた」とも話している。車にはタクシー無線改造トランク型のアマ無線機を積んだ。もちろん受信だけであるが、アマ無線の免許をもち交信している仲間もいたようだ。

その後、鈴鹿サーキットがオープンし、プリンススカイラインGT54Bやその他の外国名車が登場するようになる。関森さんは「その鈴鹿で、いすゞペレットがトヨタ1600GTに破れたのが機会にスピードレースやタイムトライアルの参加を中止、外見はおとなしく内部は超高性能な車の改造に変更し、おとなしく走るのを楽しむようになった」と言う。

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ジムカーナの様子 スターターは関森さん

[モービルハム]

関森さんは、その後ソアラ、BMW、ベンツと乗り継いだが、当時のモービルハムについて簡単に触れたい。車に無線機を載せたモービルハムの歴史は、神戸の桑垣敬介(JA3RF)さんが昭和31年(1956年)に無線機を積んで各地をドライブしており、それが最初とも言われている。また、東京では石川源光(JA1YF)さんが32年に電波監理局から車載機の許可をもらっている。モービルハムの組織「モービルハムクラブ」の組織が東京で生まれたのは昭和34年 ( 1959年 ) 10月。

大阪では組織立った動きがあったのは昭和33年 (1958年) 11月であり、日本赤十字大阪府支部に設けられた固定局との公開交信実験が行われた。その中心になった一人が関森さんと親しかった寺田薫(JA3AMQ)さんであり、この月にOEC(大阪府アマチュア非常無線クラブ)が発足、寺田さんは会長になっている。一方、関森さんはこのころ「佐々木光四郎(JA3AQM)さん宅で行われたJMHCの会合に参加したことがある」との記憶をもつ。