JR3PIO 関森 源治氏
No.4 長いSWL時代(1)
[18年間のSWL]
先にも触れたが関森さんのHF、VHFの受信のみでの活動時代は、約18年に及ぶ。もちろん、生涯このようにSWLとして過ごしたリスナーも少なくない。しかし、関森さんは単なるリスナーでなく、受信機を自作、改良し、日本橋でジャンク品を漁り軍用機器のオーバーホールに明け暮れる毎日を送っている。そして、無線機を比較しては「聞いてはいたが、日米の送受信機の段違いの技術の差には愕然とした」と言う。アメリカではこの時代にすでに、高周波部品にスチロールボビンやセラミックコンデンサー、銀メッキ線が使用されていた。「ただし、マイカ、ペーパー、オイルコンデンサー等の部品はパンクが多く、日本や南方方面の高温多湿地域には向かなかったと思う」と話す。
スーパープロ、ハリクラフター、HRO、AR-88、自作クリコンなどが列ぶ関森さんの受信設備。
また、SWL活動は一人ひっそりと受信に明け暮れたわけでもなく、多くのハムとも交流し、一緒に活動している。不思議なことは「それほどまでに技術に詳しいベテランSWLが、どうしてアマチュア無線の免許を取得しハムにならなかったのか」である。関森さんは「仕事と野球と車に忙しかったから」と言うが、活動的な関森さんにとって免許取得などは簡単だったはず。受信に撤し受信で成果をあげる事に喜びを感じていた、と理解するしかない。
[HFにも挑戦、ZONE23を聞く]
VHF、とりわけ「2m(144MHz)のハム」として知られている関森さんであるが、HFに熱中した時代もあった。現在では簡単に交信できるが、当時WAZ(Worked All Zone、世界の40ゾーンとの交信で達成するアワード)での最大難関がゾーン23であった。第二次世界大戦の後、ゾーン23の地域に含まれる中国、チベット、外モンゴルなどからオンエアする局が殆ど無く、そのためこのアワードの完成は非常に難易度が高かった。ところが突然、前触れもなくモンゴルからJT1AAが出現した。
この局の出現で、全世界のハムが一斉に彼をコールするため、パイルアップは実にすごいものだった。そしてWAZ完成の栄誉は誰が勝ち取るかが大きな話題だった。関森さんは21MHzでのドッグパイルを受信、受信レポートを送付して、オペレーターのチェコ人ルドヴィツクさんからカード(受信証明書)を受け取っている。さらに、関森さんの手元には、当時HF帯も丹念にワッチしていた証拠として、このドッグパイルの様子の録音テープも残されている。
JT1AAのカード。(1957年5月22日に受信したもの)
[戦後のアマチュア無線]
戦後再開されたアマチュア無線は当初、3.5MHzが許可され、次いで徐々に使用できる周波数が増加していった。それでもHF帯では、しばらく7MHz、14MHzに限られバンドは混み合っていた。それとともに、いつでもアマチュア局の波が受信できるHF帯は関森さんにとって魅力がなくなっていき、いつの間にかVHF帯にのめり込んでいった。
50MHzに取り組んだハムは当時少なかった。さらに周波数測定器もないままの送信も多く、とんでもない周波数で「CQ 50MHz」と叫んでいたハムも多かったと言う。関森さんも「業務用で使われていた60MHzを見つけて、この下が50MHzだろうと大体の目安をつけた」と当時を語る。
[エーコン管の超再生機]
このころ関森さんが自作したのはエーコン管955を使用した超再生機。「当時、送受信に使用していた真空管は50MHzでは十分に動作せず、さらにアンテナも300Ωの平行テレビフィーダー線を使ったお粗末なものだったため、雑音の中から信号を受信して喜んでいた」と話す。しかし、超再生式は発振器になるので早々に使用を中止したと言う。その後、関森さんはタクシー無線機の払い下げ品を改造したり、ジャンクでバラックセットを作ったりした。さらにその後は進化してクリスタルコンバーターを自作した。
[50MHz国内DX記録に立ち会う]
1954年7月25日、記録に残るVHFでの地上波遠距離交信に、関森さんは立会っている。この日、生駒市の友人である辻村民之(JA3AV)さんを訪ねた折り、奇しくも辻村さんは50MHzで藤沢市の稲葉全彦(JA1AI)さんとの交信を成功させた。両局間の距離は340kmであった。これは当時夢にも考えられなかった交信距離であった。
記録を達成した日の関森さん(左)と辻村さん(右)
稲葉さんは関東にあって50MHzの世界を苦労しながら切り開いてきた方であり、この時は、すでにJARLの役員になっていた原昌三(JA1AN)JARL現会長が「地上波による交信と思われる。こつこつと努力を続けてきた稲葉さんならではの成果」と語っており、JA1〜JA3が地上波でつながった瞬間であった。稲葉さんのVHFへの挑戦は、この連載「多彩な人生を生きて」に詳しく書かれている。
[50MHzでの海外DX局の受信]
1957年、サイクル19のピークで国内の各局が50MHzで、北米、南米、オセアニアの海外局との交信を成功させている。関森さんは自作のクリコンを全波受信機に接続し、アルミパイプで製作した4エレ八木アンテナをジャンク品のモーターで回し、連日50MHzのワッチを続けた。さらに珍局の入感は、テープレコーダーに記録している。ちなみに、この時に録音した交信には次のようなものがある。「AMモードでの交信のために雑音も多く、局名は正確ではないかもしれない」との断りがあるが、交信局名を記しておく。
(1958年11月12日)KR6KN-JA1TYW、DU1IC-JA2IC、W6FZA-JA4HM、K6QQV-JA3QX、VE7AQQ-JA3PF。
(1958年11月20日)K6PXT-JA1BLM、DU1GF-JA7SF、W7BCN-CQのみ、CE3OK-JA1AXC、VK4NG-JA1JN、PY3BW-JA3EK、LU9MA-JA3PF。
当時、日本の多くの局が50MHzで、海外との交信記録を次々と打ち立てている。関森さんの思い出として、「ローカル局が来宅し、関森さんの受信機で50MHzワッチ中にPY3BWが入感した。そのため皆が一目散に自転車に乗り帰宅して、なんとか間にあって自宅からQSOでき世界記録を作った。しかし僅か3日間後にはその記録を更新された」というエピソードもある。
[貴重な肉声]
関森さんは、珍しい局が受信できると受信レポートを送っているが、50MHzで受信したチリのCE3OKに、受信レポートとして、入感状況を録音したテープを送ったところ、「CE3OK本人より、丁重な手紙に添えて、お礼のメッセージを自分で録音編集したテープが返送されてきたことには感激を憶えた」と話す。
また、「世界的に著名なハムであるPY3BW、LU9MA、VK4NG、DU1GFなどの肉声の記録はあまりなく、貴重な資料と思う」、と関森さんは受信テープを大事に保存している。なお当時は、カセットテープが開発される以前であったため、オープンリールのテープレコーダーで録音し、後にカセットテープにダビングして保存している。
録音に使ったオープンリールのテープレコーダー。
[クリスタルコンバーターを製作する]
50MHzの受信は、VHF帯専用のアメリカ製ハリクラフター受信機もあったが、性能が悪くとても使い物にならなかった。関森さんは高性能のクリスタルコンバーターと高安定の全波受信機の組み合わせに着目し、クリコンは自作し受信機はAR-88とHROに決めた。クリコンにはミニチュア管の6AK5を高周波増幅と混合に、6J4を局部発振に、7MHz水晶を3倍オーバートーンし2逓倍して43MHzを得た。
「水晶は恒温槽付ソケットを使用したので抜群の安定度で受信できた。一番苦労したのはFT-243型しか入手できず、オーバートーンがなかなか発振しなくて根気よく調整した」と話す。144MHz帯用にARRLアマハンを参考にカスケード型の6BQ7Ax2を使用したものを作ったところ、湯浅楠敬(JA3TT)さんの目にとまり、「研究したいので貸して欲しい」と言われたこともあった。