[ハムを目指す]

関森さんは、途中、車へと道草はしたが、18年におよぶSWL活動を通し、やはり根幹にある無線好きの思いは捨てきれず、松下電器がアマチュア無線用のトランシーバーを発売する事になった機会に、その思いを実行に移す決心を固めた。当時、排ガス規制が厳しくなったことと、折からのアマチュア無線ブームも、これを後押しする結果となった。

1973年7月、無線の世界に取り残されないようにと、関森さんは国家試験を受験し、ついに電話級(現第4級)アマチュア無線技士の免許を取得した。開局にあたっては、当時の勤務先であった松下病院に来院した事業部長の誘いもあり、最初のリグとして144MHzのFM機「RJX-201」を入手し、愛車ローレルに積んで移動運用からスタートした。自宅から北に500mのところにある淀川堤防によく移動し、「モービルホイップアンテナでの運用でJCC120を得た」と言う。 

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ディスコーンアンテナを搭載したローレル2000 GX。

[転居を決意]

その頃の関森さんは、大阪市旭区内の木造2階建て住宅に住み、トランシーバーは各バンドのモノバンド機をそろえ、固定シャックからもQSOを楽しんでいた。430MHzのFMでは徳島市の十川幹司(JA5KP)さんと、毎日QSOを楽しんでいたが、そんな折、自宅から南西の方向に8階建てマンションが建つという話しが飛び込んできた。南西と言えば、ちょうど徳島市の方向で十川さんとの交信ができなくなってしまう恐れがある、もちろんメインバンドであった144MHzの運用にも大きな支障が出るのは間違いない。住宅の改築か、転宅かの二者択一を迫られることになった。

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開局当時のアンテナ群。144MHz 8エレ八木4列と、430MHz 15エレ八木4列。

関森さんは躊躇なく、そのマンションへの転宅を選び、1979年、真っ先に最上階を購入し、マンションの屋上にアンテナを設置した。屋上には10mのタワーを建設したが、地上30mなので、丈夫なワイヤーでしっかりステーをとった。タワーの上には、144MHz用の垂直偏波9エレ八木4列2段と、430MHz用の15エレ八木4列2段を取り付けた。しかしすぐに144MHz用の水平偏波アンテナの必要性を認識し、430MHzを15エレ八木4列にグレードダウンし、代わりに144MHz用水平偏波12エレ八木2列をマストの最上部に設置した。念願のアンテナと絶好のロケーションを得た関森さんは、その後144MHzのパイロット局として活躍することになる。

[定時交信]

1980年頃から約10年にわたり、毎年4月から11月のシーズンの間、関森さんは144MHzSSBでの定時交信を毎日実施した。西宮市の足立孝吉さん(JA3BCB)さんと組んで、相手局は、東は横浜市の小山孝雄さん(JF1HSW)さんや、木更津市の鈴木政美(JK1PGQ)さん、西は豊前市の宮崎俊一さん(JH6BZK)さんだった。その他にも各エリア各局のサポートもいただいたと話す。

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定時交信を行っていた頃のアンテナシステム。

関森さんはいつもビームを65度にセットし、鈴鹿山脈越えで富士山に向けていた。そのビーム方向でも、バックから4、5、6エリアの局を受信することができたため、よく中継役を頼まれたと話す。中継については是非の意見があるが、グラウンドプレーンなどの小型アンテナしか持っていない局にも、遠距離局との交信にトライできる機会を与えてあげることができるというメリットがあるため、多くの局から感謝されたという。関森さんは、「交信はあくまでも当事者双方間で成立させ、交信内容には絶対立ち入らない原則を徹底した」という。

関森さんは、さらに各バンドのアンテナを増設していった。50MHz用には6エレ八木2段、1200MHz用には36エレ八木2列、HF用にはダイポール、マルチバンドバーチカル、その方にも144MHz/430MHzの全方向受信用としてのグラウンドプレーンなどを設置し、マンションの屋上とはいえ、アンテナファームが完成した。モービルでの移動運用と併行して、以後、色々なバンドでアクティブにQSOを続けていくことになる。

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さらに50MHz 6エレ八木2段を増設。

[不法無線局の発見に協力]

1975年、毎晩夜になると144MHzのある周波数で、FMによる無変調の電波が発射されて妨害となったことがあった。関森さんは、よく切れるビームアンテナを持つ他の2局と協力し、互いに連絡を取りながら発信場所を探知した。その結果、地図上で大阪府茨木市の山中と特定でき、現場に向かったところ、144MHzのFM機から基板を取り出して改造し、フォトスイッチとバッテリーをつなぐことで、暗くなると電波が出るような仕組みの送信機が、木の上に設置されているのを発見した。その場所は関森さんたちの地図上での探知結果とたった200mしか誤差がなかったと言う。

誰が何の目的で、その送信機を設置しているかは不明だったが、直ちに近畿電波監理局(現近畿総合通信局)に通報した。後日、大阪南部のアマチュア無線局が、その送信機を持ち帰ったと聞いた。

[近畿電波監理局に協力]

また、ある時は、144.200MHzというSSBモードではもっとも使われる周波数付近で、不定期にビ-コンのような電波が発射された。この電波はQSO中でも突然発射されるため妨害となった。この怪電波については、関森さん単独で探知を行い、発信源は摂津市内と特定できたので、すぐに近畿電波監理局に通報した。

近畿電波監理局では、方向探知車を出動させるとのことで、関森さんにも協力の要請があっため、快く引き受けたと言う。探知の結果、発信元はガソリンスタンドで、LPガスの残量データを自宅に向けて送信していた。残量がある値になると、自動的にデータの送信が始まる装置であった。受信場所であった自宅場所も突き止め、電波監理局の職員が事情聴取に立ち入ると、急なことであったため、奥さんが出てきてうろたえていたと言う。

「電波の発見から摘発まで一貫して生体験できたのは初めてのこと、また、当時の電波監理局は、不法無線局を積極的に排除してくれ、感謝している」と関森さんは話す。後日、「ガソリンスタンドの無線機は、アマチュア無線家がリグを改造して作った装置で、反省もしているため厳重注意に止めたので了解して欲しい」と電波管理局から連絡があった事を、関森さんは鮮明に記憶している。