[144MHz帯]

連載第5回でも述べたが、1955年頃の144MHz帯は、わずかに自作派が実験している程度だった。その後は真空管式タクシー無線機や、米軍の放出による水晶式固定チャンネルFM機の改造を行ってオンエアを始めるハムが徐々に出てきた。一方、1959年の電話級、電信級アマチュア無線技士制度の誕生、さらには1966年の養成課程講習会制度の誕生により、ハムの数は爆発的に増加していった。そして1993年のピークには、アマチュア無線局数は135万局に到達したのである。

一方、1966年に井上電機製作所(現アイコム)が発売した「FDFM-2」など、その頃から、メーカー製の144MHzのFMトランシーバーが出回るようになった。入門ハムの多くは、HF機と比べると装置が小型で、また同調操作も容易な、50MHzや144MHzのFM機を購入してオンエアを始めた。そのため、1960年にバンドが2MHz幅に狭くなった144MHz帯は、東京、大阪などの都市部では過密状態へと向かっていった。それでもまだSSBバンドは、市販の無線機がないことから、一部の自作派が出ていただけで、ガラガラの状態であった。

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アイコムのFDFM-2。

[SSB用の無線機が市販される]

1971年頃、144MHz帯のSSBを運用する局は、全国で100局位しかいなかったが、1972年、日本電業が「ライナー2」という型番の144MHzSSB機を発売したところ、この日本で初めてのメーカー製リグに注文が殺到した。1年間で5000台を販売したのは有名で、それは皆が待ち焦がれていた証拠である。その後、「ライナー2DX」が発売され、続いて各メーカーが144MHzのオールモードトランシーバーを競って発売して行くことになる。

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日本電業のライナー2DX。

1970年代の144MHzの状況というと、FMモードではチャンネルの奪い合いが絶えず、FMモードの特性上それは弱肉強食の世界であった。このため混信による争いも多発していた。そんな状況に嫌気をさし、混信も少なく遠距離通信もでき、また占有帯域が狭いため多数の局が同時に使用できる、SSBモードに転向した局も多かった。JARLもこのモードの使用を推奨した。

[関西地区の144MHzSSB]

1970年代前半、関西地区の144MHzSSBは、各所でミーティングやハムの集いが開かれており、各々50〜100名が参加して盛会であった。その頃は、錦織宣壽(JA3XPM)さん、山家壯啓(JA3SSS)さんらが活躍しており、これら開拓者のハムが中心となって拡がり普及していった。また、西日本大会など大規模なミーティングの準備も行われていた。

1972年には第一回ロールコールが開始されている。当初、キー局は6局ほどの持ち回りで担当していたが、その後、山田悦三(JH3VSR)さん、金子孝夫(JH3OJW)さんが担当し、西日本ロールコールと称するようになった。「144MHzSSBが活況を呈したのも、これら先駆者の方々のご努力の賜物である」と関森さんは言う。

[2mSSB愛好会の発足]

関森さんは、1973年に開局すると、144MHzを中心に運用したが、1970年代の後半になると、親睦を目的とするグループの結成の動きが起こり、そのとり纏めを求められた。関森さんは、これに応えて1978年3月、「大阪2mSSB愛好会」を創立し、会長に就任した。設立総会は摂津市で開催した。「メンバーは、島伊三治(JA3AA)さんをはじめとするOM各位の参加もあり、249人の大人数でのスタートでした」と話す。

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大阪2mSSB愛好会の設立総会。

設立時には、2mSSBの発展に寄与してきた先輩から「西日本2mSSB同好会」に合流しないか、との誘いもあったが、関森さんは、「近い将来に都道府県ごとに必ず愛好会ができるとの確信があったので、敢えて独立運営する道を選んだ」と話す。大阪2mSSB愛好会では、大阪を5地区に分け、各地区に事務局を置き連絡を密にして、均等に会員の入会を促した。また発足後は、順次、コンテストの実施、アワードの発行、会誌の発行、ロールコールの実施を開始していった。また、後年には愛好会の社団局・JL3YBSを開局し、JARL登録クラブとして活動を開始した。

現在、関森さんは顧問に就任し、会長は関森さんの後、小林泉(JH3APT、前CQ誌144MHzコラム担当)さん、鈴木哲男(JF3UXS)さんに引き継がれ、現在は、﨑山政雄(JM3EMY)さんが就任している。アマチュア無線局数の減少に伴い、会員数は110余名となっているが、それでも一地方の愛好会としては、多数の会員を擁していると言える。毎週金曜日に行っているロールコールでは、いつも50局ぐらいのチェックインがある。

今年2008年は、大阪2mSSB愛好会の設立から30年になるが、会の運営にあたり心がけている目標は下記のとおりですと、関森さんは話す。

・会員の意向を尊重し、愛好者相互の親睦を計る。

・ルール、マナーを守りアクティブに運用する。

・144MHzSSB帯を確保する運動を行う。

・不法無線局の排除を展開し関係先に要望する。

・ITを活用し情報交換を行う。

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第10回西日本2mSSB愛好会大阪大会。

[全国、地方大会の開催]

2mSSB愛好者の集い(大会)は、まず1973年、「第1回2mSSB西日本大会」として大阪府吹田市で開催された。その後、全国的に144MHzの活動が活発となり、各地で愛好会が結成され繋がりもできていった。1979年には、大阪府富田林市で「第10回西日本2mSSB愛好会大阪大会」が開催され、関森さんはその開催に奔走している。この大会には、実に500人を超える参加者があり成功裏に終了した。

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大阪大会に集まったモービル。すべて大会への参加者。

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大阪大会で講演する関森さん。

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大阪大会では、機器メーカーによる展示も行われた。

その頃、東日本でも多くの愛好会が組織され、その結果1984年、「第1回2mSSB東日本大会」が宮城県刈田郡で行われた。その後、全国を合流する気運が高まり、1991年、ついに東西が合流し、東京で全国大会(第24回2mSSB愛好者の集い)が開催された。その頃、2mSSB愛好会は全国で80グループぐらい結成され、全国大会は年に一度のアイボールQSOを楽しむ場となっていった。関森さんは全国2mSSB愛好者の集い・運営委員会顧問に就任し、2008年9月の第42回全国大会は大阪2mSSB愛好会が担当し、創立30周年を記念し、「おいでやす なにわ大会」と銘打って大阪市で開催する事に決まっている。