[アワードへの挑戦]

1980年代から1990年代にかけてのアマチュア無線人口の最盛期は、アワードハンティングが活発であった、2mSSBを運用する各局は、夢中になって「JCC」(多数の市との交信)、「JCG」(多数の郡との交信)を追っかけた。そのため、ロケーションの良い場所や、珍しい市郡に移動して、JCC/JCGサービスを行う局も多かった。

[JCC-600の獲得]

関森さんも、2mSSBで、順に難しいアワードに挑戦していった。まずは「AJD」(日本の10個のコールエリアすべてと交信)、次に「WAJA」(47都道府県すべてと交信)を獲得した。「JCC」のスコアも順調に伸びていった。そして、10年かけてついに「JCC-600」(600の異なる市との交信)を達成した。これはすべて固定シャックからの運用だけで獲得したものだった。自らが移動し、見通しのよい山の上などから運用すれば、もっと短い期間で達成できるが、関森さんは固定シャックからのJCCハンティングにこだわった。

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144MHz特記のJCC-600アワード。

この「JCC-600」の達成は、苦労の連続だったと話す。目的の市に2mSSBを運用する局がいない、遠距離すぎて異常伝搬が発生しないとつながらないなどが理由であった。それでも関森さんは、「いつ発生するとも分からないEスポを待ちワッチを続けた」と言う。「Eスポが発生したり、コンディションのよい日には、HL(韓国)、UA(ロシア)などの海外局とも交信できた。地上波のコンディションが、特に良かった1984年7月1日には、AJDを1日で完成するONE DAY AJDを達成できた」と話す。

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ONE DAY AJDを達成した時の、全10エリアのQSLカード。

[上空移動]

JCCハンティングこそ、常置場所である固定シャックからの運用にこだわったが、関森さんは、山岳への移動運用や、モービル運用ももちろん堪能した。しかし、移動する局の方の免許状には、移動範囲として「陸上、海上及び上空」と記載されており、陸上の移動運用は常々行っているが、残り2つをぜひ実践してみたいと考え、持ち前の研究心でこれらを試みた。

まず上空移動は、友人でANAの機長であった新村和朗(JE3XYZ)さんや、その友人の操縦によるセスナ機で、大阪の八尾空港から4回の関西周回フライトを行い、フライト中の運用を行った。当初3回は、ハンディ機による144MHz帯だけの運用であったが、2000年10月の4回目のフライトでは、電波伝搬の実験目的で7、21、50、144MHz帯の4バンド運用を行った。「飛行機からのHF帯の運用は、アンテナの設置が難しく、他のアマチュア局による上空移動で、HF帯を運用したという話しは、それまで聞いていなかった」と言う。

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セスナ172Pスカイホークと新村さん(左)、関森さん(右)。

「セスナ172Pスカイホーク機の乗り心地は、大型旅客機のそれとは縁遠く、まるでレーシングカーの様で、狭い室内に爆音、振動、揺れが襲ってくる。さらに高所恐怖や、乗り物酔いなども加わり想像以上の過酷さ」と言う。関森さんがこの運用に使用したリグは、IC-706MkIIの50W機と、2mSSBの記念局・8J3SSB用のIC-275の10W機。電源は、各種計器への電波障害防止のため、セスナ機の電源とは別回路とし、容量65AHと20AHの鉛シール電池を持ち込み厳重に固定した。

[アンテナの設置]

1番の問題はアンテナで、機体の上下には、すでに航空通信用のアンテナが取り付けてある。そのため、まずは機尾と主翼の固定用フックを利用して、短縮ワイヤーを張る事を考えたが、保安上の理由もあり中止した。最終的には、車輪支柱のステップに、モービル用アンテナ基台を頑丈に固定し、7/21/50/144MHz帯用4バントホイップアンテナを取り付けた。「一番注意したのは飛行機の各種計器に対しての電波障害であった。取り付けも保安基準に合致するよう厳重にチエックした」と言う。

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機体に取り付けた4バンドホイップアンテナ。

このホイップアンテナは、重量485gで、長さが2mある。軽飛行機でも時速は180kmに達し、相応の風圧を受けるため、アンテナの設計仕様である垂直取り付けは不可能と判断し、水平に取り付けた。さらに、強化クレモナロープを使用して主翼と機尾のフックにステーを取った。また、アンテナと機体は1mも離れていなかったため、ミスマッチを起こす恐れもあり、手動アンテナチューナーを併用した。同軸ケーブルは機体が気密構造で、開口部が無いため、やむなく窓を半開きにして引き込んだ。このため、爆音と風がまともに機内に入り悩まされた。

無線機、アンテナチューナーやバッテリーの搭載は、安全面に配慮し、振動、揺れに耐えられる様に頑丈に固定した。ただでさえ狭い室内の後部座席は、無線機などで一杯となった。飛行中、体はシートベルトで固定し身動きがとれず、また、ヘッドホンは爆音を遮断するために耳が被さるタイプを使った。そのため、前席の新村さんから方向、ポジションや高度の情報は筆談だった。関森さんは「インターカムの必要性を痛感した」と言う。

[いざ運用]

八尾空港から離陸後、管制塔との交信終了を待ち、運用を開始した。当日はあいにく天候不良で、さらに強烈な爆音と振動、揺れに悩まれつつ、まずは南下した。このあたりは関西空港が近いため、高度は2000ftしか取れなかったが、はじめに運用した144MHzでは各局が59+で入感し、たちまちパイルアップになって、ヘッドホンをガンガンと鳴らしてきた。1局でも多くの局にサービスするため、関森さんはショートQSOを続けたが、「揺れのため平衡感覚が薄れ、ログがうまく書けなかった」と言う。

和歌山県境まで南下したところで左に旋回し、高度を4000ftに上げ、紀ノ川沿いに東進した。このあたりは3650ftの金剛山がある山岳地で地面が近く見えた。前方に雨雲を発見したので五條市上空より北進し、奈良県を縦断して琵琶湖方面に向かった。この辺で静岡県磐田市や岡山市と交信できた。その後高度を4500ftに上げ、雲上に出て肌寒さを感じつつ大津市沖の琵琶湖上空でUターンした。

[117局と交信]

Uターン後、兵庫県に向かい、加古川市上空で福岡市の小野弘人(JF6LIP)さんと交信、三田市上空では長崎市の平田建司(JR6CTI)さんとの交信に成功し、最長距離を記録した。関森さんは「鉄塔上のアンテナとは比較にならない上空からの飛びのすごさを実感した」と言う。その後、運用バンドを50MHzに変更した。QSY後は再度パイルアップになったが、144MHzほど局数は伸びなかった。50MHzでの最遠は兵庫県高砂市だった。

高槻市上空まで戻ったところで、今度は運用バンドを21MHzに変更したが、Eスポと思える伝搬で沖縄県那覇市の波平元範(JS6PSH)さんと交信できた以外は、ローカルの5局しかQSOできなかった。また、7MHzは上から下まで出る隙間が無く、交信局数はわずか3局に終わった。「これはアンテナが機体側近の右側にあり、かつ本来なら垂直に設置すべきホイップアンテナを横向けに設置したことで、偏波面に影響があったと思う」と関森さんは話す。

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エアモービル(AM)運用で発行したQSLカード。

飛行距離約200km、1時間20分間におよぶ運用で、関森さんは最終的に117局との交信を達成した。「エアモービルは軽自動車並に狭い室内のため、運用は楽ではないが、それでも航空隊の事を思えば何ともなく、慣れれば辛くても爽快であった」と当時を振り返る。「幸いにも記念局8J3SSBの運用を行い、アマチュア無線の活性化に多少なりとも寄与することができたと思う」と語る。その後、2001年にアメリカでの同時多発テロ事件があって以来、関森さんは、エアモービルの運用を中止している。