[海上移動]

関森さんは、上空移動の次は海上移動に挑戦した。2001年、泉南郡田尻町のヨットハーバーより出発し、岩木尚夫(JA3DMC)さんが操艇するヨットから、記念局(8J3SSB)の運用を行った。それ以外にも、個人コールでの運用を何度も行った。「マリタイムモービルもエアモービル同様、狭い艇内で揺れに悩まされた」と言う。セーリング中は音もなく快適そのものであるが、エンジンでの走行中は騒音がひどかった。

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ヨットから運用する関森さん(左)。後方にホイップアンテナが見える。

アンテナについては、マストからのワイヤーがあって展張しにくく、そのため「やむなく簡単なホイップやバーチカルを使用した」と言う。伝搬については、「144MHz帯の伝搬は、海上通過だけであれば、障害物がないため距離は伸びるが、内陸部に向かって電波が陸上を通過すると、急に減衰して到達距離は思うほど伸びなかった」と言う。

一方、電離層伝搬となるHF帯では、このような減衰がないため、たとえば、単独世界一周航海で有名な堀江謙一(JR3JJE)さんが、航海中に21MHzを使って、全国各地、また世界各国との交信を行うのは有名な話である。関森さんは、「上空移動、海上移動とも、常置場所からの運用では判らない伝搬や、苦労を体験した」と述懐する。

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マリタイムモービル(MM)運用で発行したQSLカード。

[JARL役員に就く]

話しは前後するが、1985年より1995年の10年間、144MHzSSBは運用局も増えて活況を呈し、最盛期を迎えていた。1987年にJARL周波数委員会(JG1SQB藤原功三委員長)専門分科会の委員となった関森さんは、144MHzSSBの有益性を訴え、バンド幅の確保を主張した。委員会は新しいバンドプランを協議し1988年2月これを答申した。これが後々電波法に反映され、無線局運用規則として施行された。総務省告示「アマチュア業務に使用する電波の型式及び周波数の使用区別」のベースになったのである。

1990年前後、折からのアマチュア無線ブームでJARL会員も約15万人と膨れあがっていた。1989年、関森さんは、当時の関西地方本部長だった田路嘉秀(JA3XZW)さんからの強い要請で、地方本部の会計幹事に就任した。この職は近畿6府県の会計を統括するもので重要な役職であった。

[台湾で運用]

関森さんの娘婿は、かつて台湾の台北市で海外勤務していたため、関森さんは何度も現地を訪問した。そのうちの一度、台湾に向かっているときに、奄美大島上空付近で、日本(名古屋)に向かう中国機とすれ違ったが、その機が名古屋空港で着陸に失敗、炎上したと、台北市のホテルのTVニュースで知り大変驚いたそうである。関森さんがそれほどまでに驚いた理由は、当初の予定では自分がその便に乗って帰国する予定だったからだ。

その後台湾には、2007年7月、友人である佐々木光四郎(JA3AQM)さんをリーダーに、岡田誠(JA3FWU)さん、中橋芳信(JF3EFL)さんと4人で無線運用のために向かった。台湾では李(BV2NT)さんの案内で、台北市近くの新店市にある呉(BU2AQ)さん宅を訪問し、日本で行われていた144MHzSSBの全国移動通信に、BW2/JR3PIOのコールサインで参加した。「台湾から九州までの距離は1200kmもあって144MHzでは交信できなかったものの、沖縄本島浦添市の古堅政尚(JR6RMZ)さんと、700kmの交信に成功したのは収穫であった」と語る。一方、21MHzや50MHzでは多数の日本の局と交信できた。

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台湾からの運用で発行したQSLカード。

関森さんの娘婿に話しを戻すと、台湾勤務の後はハワイのホノルル勤務となった。関森さんは、ハワイにも「観光を兼ねて10数回訪問した」と言う。その際、CQ誌の電波予報の筆者であったワイカル(KH6BZF)さんや、ホノルル在住の相馬泉(KH6JA)さんらとアイボールQSOを行い親交を深めた。

[中国を訪問]

関森さんは、中国にもJARL訪中団の一員として、10数人で上海経由で成都を訪れたことがあり、現地でARDFの大会を視察した。成都空港では、「ここからB29が飛び立って日本本土を爆撃したことを思い出していたところ、空港には佐川急便のトラックがとまっており一瞬目を疑った」と言う。これは、日本の佐川急便が成都で営業活動しているわけではなく、日本から輸入した中古車を、塗装し直さずにそのまま使っていたのであった。さらに、搭乗してきた飛行機も「かつての日本の中古機ではないか」、との話しも聞かされた。

中国滞在中は、長谷川良彦(JA3HXJ JARL関西地方本部長)さんと同室で過ごし、「長谷川さんのアマチュア無線に対する情熱を親しく聞くことができたのは、すこぶる有益であった」「四川省のARDFの大会では、中国人の少年選手がスタートするや、山道をまるで野生のカモシカの如く疾走する運動能力の高さには感心した」と話す。関森さんは現地BY9局とも交流を行った。

ARDF会場にほど近い観光名所・峨眉山には、ロープウエイのトラブルで行けなかったが、杜甫で有名な報国寺から岩の山道に登る際、手作りの篭椅子に乗って肝を冷やされたという。帰路立ち寄った上海では、クラブ局BY4AAの開局記念式が行われた。会食時にたまたま同席した元オリンピック水泳選手である呉女史と、それ以来長い付き合いが始まった。後日、「友好都市である大阪府寝屋川市を女史が訪れた時、感激の再会ができた」と語る。

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手作りの篭椅子に乗る関森さん。

[サイパンで運用]

ハワイとグアムでは、観光だけで無線運用の機会に恵まれなかった関森さんであるが、2000年8月サイパンに向かった。サイパンにはレンタルシャックがあり、そこでの無線運用が目的であった。そのレンタルシャックは、島の北に位置しバンザイクリフに近いリゾートホテル内にあり、ゴルフ場が併設されていた。「シャックであるコテージは、一棟借りになるため、多人数での運用の場合は安く上がりだが、一人で借りたので結構な出費となった」と言う。

また、大型トランシーバーやリニアアンプは、運用デスクに設置されておらず、運び入れて設置するのに一人ではままならなかったため、やむなく小型のトランシーバーを使って運用を行った。ロケーションは良かったが、運悪く天候は豆台風のような強風と豪雨の大荒れ模様だった。関森さんは相互運用協定に基づくコールサイン・KHφ/JR3PIOを使い、疑心暗鬼で21MHzでCQを出すと、スタンバイした途端にローカル局並みの強さで日本の局がコールしてきた。

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サイパンからの運用で発行したQSLカード。

その後はパイルアップとなり、日本の全エリアと交信できた。ローパワーにも関わらず、レンタルシャックの常設アンテナであるフォース12社の八木アンテナの性能に助けられ、翌朝までの運用での交信局数は、日本以外の局も含めてトータルして500局にも達した。途中、50MHzで島伊三治(JA3AA)さんとの交信にトライしたが、残念ながら50MHzはオープンしなかった。このレンタルシャックは関森さんが借りてしばらくした後に閉鎖になったため、「最後に近い利用者だったと思う」と話す。

その他、国内の移動ではあるが、関森さんは奄美大島を何度も訪れ、2000年7月には現地の友人である、勇俊樹(JF6FTR)さん渡辺勝三(JA6DJD)さんとのアイボールQSOを行った。奄美大島からは主に7MHzと21MHzの運用を行い、「全国から多数の局に呼んでいただき、230局と交信できた」と話す。

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奄美大島で運用中の関森さん(中央)。左は勇さん、右は渡辺さん。