[病院勤務と病気]

1964年、松下病院に入社した関森さんは、困難な道を辿ることになる。病院では課題が山積みしていた。建物は、近代化と防火のために改修工事が必要だったが、満床の状態であった。特に地区住民の入院患者が多く全体の70%を占めていた。4期の改修工事中、関森さんは入院患者一人一人を訪ね、一時転院や外泊をお願いしたが、了解を得るのは難しかった。

「工事による騒音や埃は我慢する」、と返答する患者が多かったからだ。有り難い思いと少し難儀かなとの思いが交錯したと言う。そのため、関森さんは、毎日のように事務机を動かさなければならなかった。そのストレスの為か、関森さんは体に異変を来たし、胃潰瘍を発病し手術を受けることになった。

奇しくも、同じ時期に部下の課長3人も同じ病気で手術を受けたので、責任を痛感したと言う。そのようなこともあって、関森さんは、この間、暫くは車にも乗れず、SWLもできないで過ごす毎日であった。「石の上にも3年と物の例えに言われるが、この病気も5年経たないと安心できないようである。病後は勤務しながら回復を待つ状態であった」と当時のことを思い出す。

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松下記念病院の竣工時の様子。

[社会保険労務士の免許を受領]

1969年10月、関森さんは社会保険労務士の免許を取得した。2008年現在、問題になっている年金問題の解決には、全国の民間健保組合OB職員や社会保険労務士等の、プロの協力を得たら一大戦力となって処理のスピードがアップする、と持論を展開する。(その後、本連載執筆中に、舛添厚生労働大臣が社会保険労務士の協力を要請した)

[コンピューター導入を提案]

関森さんには、無線を通して身につけた電子の知識が豊富にあり、病院内では「電気やメカに強い」と評価されていた。ある日、労働組合から超過勤務改善の申し入れがあった。病院の診療報酬の請求は、毎月7日迄にレセプトを支払基金に提出するが、カルテと点数表と見ながら手書作業で行うため捗らないし、時間外でないと作業ができない。さらに短期間で処理しなければならないため、どうしても超過勤務となる。これは全国どこの病院でも悩みの種であった。

現在であれば、人材派遣会社から、処理期間だけスタッフを雇い入れるという方法も採れるが、当時そのような会社はなかった。関森さんは、コンピューターに関心をもち、勉強もしていたので、この難問はコンピューターの導入しか解決する方法は無い、と大胆な発想を労働組合に提案をした。当時、一般企業でもコンピューターの利用はまだ実施されておらず、関係者にはコンピューターそのものの説明からはじめ、コンピューターを利用すれば、診療報酬の計算がこのように効率的、かつ短時間で処理できると、一から説明する必要があった。

関森さんは、コンピューターメーカー各社を呼び、ソフトの設計を打診したが、各メーカーのシステムエンジニアは、病院の業務の流れをほとんど知らなかった。やがて話の分かる富士通ファコムの担当者に、診療フロチャートを説明して、ソフトを設計するように依頼した。その基本は病名入力でなく点数表による数字入力を採用するよう指示した。時に1969年のことであった。その後10数年かかったが、それは次第に後継者に引き継がれて完成度の高いソフトとして陽の目をみることとなった。「診療報酬の計算にコンピューターを導入したのは、日本の病院では東洋工業(現マツダ)、関東逓信病院と共に先駆者だったと思う」と関森さんは話す。

[看護学校を創設する]

1960年頃の松下病院は、全般的に人、物、建物の整備中であり、看護師の数も不足気味だったため、関森さんは、再三、地方の看護学校へ卒業生採用の交渉に出かけた。ある時、愛媛県松山市の看護学校で、関森さんは衝撃的な通告を受けた。「卒業生は送れません、そちらで自給自足をしなさい。松下病院はそれができる病院、会社であるからです」と言われ、愕然として帰路についた。

帰阪後、松下本社の遊津理事にこの話を報告したところ、二つ返事で「京阪電車の土居駅前にある男子寮を提供するから学校を作ればどうか」との提言をもらった。関森さんはこの提言を素直に取り入れて、看護学校の創設に着手し、1972年に無事完成した。この松下看護専門学校は、今でも存続し、毎年有能な看護師を排出している。関森さんは、「自分のところでできる事をする大切さを思い知った。これはアマチュア無線の分野でも活きている」と述懷する。

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松下看護専門学校。

[京都市、山口県柳井市の病院より招聘される]

関森さんは松下病院を1986年に定年となったが、定年後も3年半勤務した。退職後の余生はアマチュア無線を存分に楽しもうと思っていた矢先、京都市伏見区の総合病院より招聘された。頼まれたのは経営の立て直しであった。その病院の改築、整備、近代化を行い、当初3年の約束のところ、結局5年を要したが、経営の立て直しもできて、この総合病院は生まれ変わった。

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松下病院の定年退職記念に撮影してもらった1枚。前列中央が関森さん。

関森さんは、これで完全リタイアすると決めていたが、1996年10月、休む間もなく、今度は山口県柳井市の病院からの招聘を受けた。遠隔地であることと、年齢的な心配もあったため断りたかったが、お世話になった先生の紹介だったためやむなく応じたと言う。ここでも理事、事務局長として勤務し、当初3年の約束のところ5年かかったが、所期の成果をあげることができた。その後、病院は改築、新築され立派になっているという。

この病院への勤務時には、新大阪駅から新幹線のぞみ号の始発に乗って出勤し、4日間勤務した後、同じくのぞみ号の終発で帰ることを毎週繰り返したが、現地で宿泊する夜は、暇を見つけては、「社宅から/4柳井市移動で7MHzの移動運用を行った」と話す。