[厚生大臣表彰を受ける]

1989年、関森さんは永年の功績により厚生大臣表彰を受けた。その他にも、健保連合会、大阪府知事、守口市長、保健所長、消防署長等、公共団体より多数の表彰状、感謝状を受けている。特に印象に残っているのは「1986年に地元の守口市木崎正隆市長から病気入院中にもかかわらず感謝状が贈られた事である」と話す。木崎市長は全国でも最長老、最長任期を務めた市長で、この直後に亡くなったため、「遺言の代わりであった」と関森さんは述懐する。

photo

木崎正隆 守口市長から感謝状を受け取る関森さん。

[松愛会ハムクラブを設立]

かつて、松下電器には無線研究所、ラジオ事業部を始めとした各事業部や、全国に展開する関連会社にも多くのハムが在籍し、各地区でグループを結成してそれぞれ活動していた時代があった。1962年に設立された松下アマチュア無線クラブ(MARC)は、ラジオ事業部がアマチュア無線機RJXシリーズを発売した1973年には、会員数120名を数え、大所帯となっていた。

しかし、その後電化時代の到来と共に会社の業績も拡大し、業務が多忙を極めたため、各メンバー共に無線どころでは無くなっていった。その間、会社の全国展開もあってメンバーが全国に分散した。さらにラジオ事業部も名称が変わって福島県に移転し、MARCの活動は次第に下火となっていった。

関森さんは、1998年、かつて松下電器の企業戦士であり現役を退いたOBハム有志を募って、OBによるクラブを設立すべく腰を上げた。そして関森さんは、岡田茂美(JA3IAS)さん他、30人の有志と共に松愛会ハムクラブ(SARC)を設立することになる。以前ラジオ事業部にあったJA3YEAを譲り受けて、コールサインを復活し、会社の厚意もあって、枚方市に社団局を設置した。

photo

松愛会ハムクラブ設立総会でのスナップ。前列中央が関森さん。

社団局は枚方市にある松下電器の体育館の敷地内に開設し、常設シャックもある。活動は、月に2回程度の公開運用をメインに、コンテスト時には積極的に運用を行っている。会員間の情報交換はホームページやEメールを活用している。現在、関森さんは顧問に就任し、会長は岡田さんが継承している。会員数は53名に増え、活動もますます活発化している。一方、関東在住の松下電器OBらによって、松愛会横浜ハムクラブ(SHC/Y 会員数12名)も横浜市に設立された。会長には小森田克比呂(JA1ANF)さんが就任し、こちらもアクティブに活動している。

photo

松愛会ハムクラブJA3YEAのQSLカード。

[松下アマチュア無線クラブの復活にも協力]

松愛会ハムクラブの設立に続いて、現役組も松下アマチュア無線クラブ(MARC)の復活に向けて動いた。復活にあたって、関森さんは、当時の会長であった河上勲(JA3FVT)さんをサポートした。MARCでは旧録音機事業部にあった社団局・JA3YEBを受け継いで1998年再発足した。現在、会長には舟木武史(JI3DST)さんが就任し、会員61名(OB15名を含む)を擁して活発な運営がなされている。

photo

松下アマチュア無線クラブ2008年総会でのスナップ。前列右から2人目が関森さん。

現在はどこの会社でもそうだが、セキュリティが厳しく、社内といえどもそう簡単に行き来できる状況ではない。そんなこともあって現役組のMARCは、社内に常設シャックを持っていないので、MARCメンバーが運用を行う際は、関森さん達OBは快くシャックを提供していると言う。

[しし座流星雨による交信]

流星に電波を反射(散乱)させて交信する方法は、MS(Meteor Scatter)通信と呼ばれている。普段は滅多にチャンスのない交信方法であるが、年に数回ある流星群の出現時に交信できる可能性がわずかにある。流星の数が多ければ多いほど反射する確率が上がるが、流星の数が特に多い状態は流星雨と呼ばれる。関森さんは、これまでに2回、1998年11月と、2001年7月にMS通信に成功した。しし座流星群は毎年11月18日前後に極大となるが、1998年は特に流星の数が多く流星雨となった。

1998年11月17日、関森さんは、いつものように144.230MHzのSSBでモービル局相手にQSOを行っていると、朝8時46分過ぎ、少し離れた周波数で、MS独特の断続した信号が入感してきた。そのためすぐに同調をとり、注意深くワッチしたところ、それは紛れもなく北海道千歳市の南 栄史(JR8MCR)さんのCQであった。「ニュースで聞いたしし座流星群の極大は明日のハズだったが」、と半信半疑で南さんをコールすると応答があり、すんなりQSOが成立した。ローカル各局も次々にQSOできた。

後で分かったことだが、南さんは、この時点ですでに0、1、2エリアとも交信しており、11時半過ぎまでの運用で、合計数10局とMSでの交信に成功し、5年来の夢が叶ったそうである。その後、関森さんは2001年7月30日、17時14分にもMSで、今度は新潟市の後藤寿雄(JE4LWQ/0)さんとの交信に成功した。「凄いスピードで移動する流星群に電波を反射させるため、短時間での交信が要求されたが、なかなか巡り会えないMSによる交信ができて幸運であった」と関森さんは語る。

photo

MSによる交信で得たJR8MCR局のQSLカード。右側は実際の流星写真。

[VHFのコンディション]

「サイクル19の凄いコンディションを体験したアマチュア無線家は、一生これを忘れないと思います」と関森さんは話す、まさかVHF帯の50MHzの電波が地球の裏側まで届くとは、HF帯の伝搬しか知らない人にとっては夢物語であったのであろう。このサイクル19をきっかけにVHF帯の開発が加速していった。

終戦後、進駐軍の軍人が運用する本国向けの14MHzを使ったフォーンパッチによる交信が、関森さんが初めて聞いたSSBの電波だった。このSSBモードと50、144、430MHzとの組み合わせは抜群に相性が良く、DX通信には特に威力を発揮した。太陽黒点数は11年周期で増減を繰り返す。サイクル19では1957年に200を数え、これを頂点に下降期に向かって行った。やがてコンディションが落ちても、このSSBモードを使うことで、「DXとのQSOもある程度可能であった」と言う。

[Eスポによる交信を回顧する]

Eスポの発生の予測は難しく、50MHzでは栗山晴二(JA1KS)さんの唱えた「キングソロモンの法則」が喧伝され、全国のVHFマンは新聞の天気図を見たり、ラジオ天気予報のニュースに聞き耳をたてた。関森さんは、これに加えて岩手県三陸沖に低気圧がある時は西から東への伝搬が良い、日本列島に不連続線があるときや、富士山頂の温度が上昇するときなどにコンディションが良いことを、実体験に基づき体験したと言う。

1970年、日本で初めて144MHzによるEスポQSOが6エリア(九州)〜8エリア(北海道)間で達成された。その後今日まで、Eスポのオープンは2mマンの楽しみとなっている。関西からはEスポで、8エリアおよび沖縄とは年に数回ずつオープンするが、7エリア(東北)は中々オープンせず難関である。以前は、50MHzのビーコンや、80〜108MHzの商業FM放送、また145MHzFMを聞いて、苦労してEスポの発生の予測をたてていたが、現在では電離層の観測データが、インターネット経由でリアルタイムに見られ、便利になった。関森さんは「IT活用の時代の流れを痛感する」と述懐する。

photo

Eスポによる交信で得た沖縄県名護市JR6QYV局のQSLカード。

その他の特殊伝搬として、1969年、日本とオーストラリア間でVHF帯の通信実験が行われた。具体的には、地磁気共役点になる鹿児島山川町とオーストラリア・ダーウィン間4841kmにおいて、88MHzのビーコンを送信して各種の実験が行われた。その後、赤道横断伝播(TEP)と称するこの伝搬を使った通信は、アマチュア無線における日本とオーストラリア間で、144MHz帯SSBを使って活発に行われたことは有名である。