[台湾そして沖縄] 

高良さんが生まれたのは昭和20年(1945年)1月。台湾・新竹であった。約4年前に始まった太平洋戦争は終末を迎えており、日本攻略を目指した米軍は台湾を素通りして沖縄上陸を目指し、高良さんが生まれたころには沖縄への爆撃が始まっていた。3月23日には、沖縄上陸が始まり、日本軍、沖縄民間人合わせて20万人が犠牲となった沖縄戦が終了したのが昭和20年6月23日であった。

高良さん幼少時の異動ルート

高良さん一家は、祖父が台湾で製糖工場に働いていたことから、早くから沖縄、台湾を行き来し、父親は沖縄の教員養成所を卒業した後、台湾で小中学校の教師をしていた。戦後、日本は領土であった台湾を放棄させられ、沖縄は米国の支配地になった。終戦とともに高良さん一家は、日本ではなくなってしまったこの2つの土地のはざまで翻弄されることになる。

ただ「住んでいた台湾が戦場とならず、壊滅的な打撃を受けた故郷の沖縄にいなかったことは幸運だった」という。この戦後の大きな変化のなかで、まだ記憶のない高良さんは転々と住まいを変えている。台湾からは追われることになったものの、米国領となった故郷の沖縄には戻れない。高良さん一家はやむなく九州の鹿児島を経由し、父の従弟を頼って佐賀へに移り住み、沖縄に戻ることが許されると沖縄のコザに移住する。

[ランプ生活にノミ・シラミ] 

「コザに移ったのがいくつの時かはっきりしないが2、3歳のころだったのではないか」と高良さんは言う。その後、那覇市に移り昭和25年(1950年)に市内の壺屋幼稚園に通い始める。「当時はまだ電気が通じてなくランプ生活。ランプの”ほや”の掃除が日課だった」ことを思い出している。”ほや”はランプの炎を覆うガラス製の筒で、すぐに煤で曇るため常に掃除が必要だった。

生活は貧しかった。「いもをつぶして食べていたが、それは良い方であった。米軍が提供してくれた脱脂粉乳を溶かしたのが給食だった。米軍の缶詰が配給になったこともあった」と言う。困ったのは「ノミやシラミが体にまとわりついていたことだった」と「まるで昔の生活に戻ったような暮らしをした」らしい。もっとも敗戦により産業経済が壊滅した日本本土も似たような生活状態であった。

翌年、壺屋小学校入学。このころ近くに発電所ができてようやく電気が灯る。「夕方から何時間かの間だけだった。もちろん、電力メーターはなく使う電力のW数に応じた契約だったため、何Wの電球何個という契約を結んでいた」と言う。不正防止のためか「電球の口金は左ねじ式で電球のフィラメントが切れると、電球を持参して取替えてもらっていた」ことを記憶している。

[小学校時代] 

生活は苦しかったが、父親が教職にあった関係から高良少年は科学雑誌「子供の科学」を読むことができ、早くから電気に興味をもった。「電池で豆球を点灯させたり、教材のモーターやベルを作って遊んでいた」が、小学校3、4年生になるとラジオに興味をもつ。鉱石検波器、マグネチック式のヘッドホンを買い、スパイダーコイルを作り鉱石ラジオを組み立てた。

当時は海岸に米軍の座礁した軍船がそのままになって残っていた。鉄屑や配線類はスクラップ屋に売り、少しでも生活費にしようとする人々により持ち去られていたが、コンデンサーや抵抗器などの電子部品類が残っていた、自宅近くにもスクラップの山があり高良少年は真空管、カラー抵抗やオイルコンその他の部品を集めて楽しんでいた、しかし利用することはできなかった。

[昆虫少年] 

ラジオに興味をもっていた高良少年だったが同時に蝶を捕まえて、標本を作ることにも熱中した。やはり「子供の科学」を読んでその楽しさに引かれた。日本本土では蝶は秋になると姿を消し、春になってから羽化して飛びまわるが、沖縄では年間を通して捕まえることができた。「毎週、土曜、日曜になると補虫網を持って飛び回った」と言う。

高良少年は4人兄弟。4歳上の拓夫さんが何かにつけて目標でもあり、いろいろと教えてくれた。蝶の採集も先輩である。学校で勉強する教科書は本土で制作されたものを使っているため「代表的な蝶として紋白蝶やあげは蝶が必ず登場していた。どうしてもそれが欲しくて兄からそのやり方も教えてもらい、子供の科学の交換欄で交換して手に入れたこともあった」と言う。

逆に沖縄では珍しい木の葉蝶やきれいなツマベニ蝶が知られていた。高良少年はどうしても採りたかったが周辺ではなかなか見つからないうえ、ツバべニ蝶は高いところを飛んでおり、子供では捕まえることが難しかった。「そのため小学校の修学旅行で名護に行った時にも補虫網を持参したほどである。木の葉蝶を見つけたが取り逃がしてしまった」と今でも残念そうである。よほど欲しい蝶だったらしく高良さんは後にその標本を買い、部屋に飾っている。

部屋に飾られている「木の葉蝶」(上)の標本

[ラジオ少年] 

昆虫少年」から「ラジオ少年」に転換する時がやってくる。小学5年生の時に電池電源の真空管1T4を購入し、1球ラジオの組立てを試みたがうまくできなかった。昆虫の方が魅力があり、熱心でなかったのが原因だった。ところが中学1年になるとにわかにラジオに熱中する。あれほど夢中であった昆虫からの転身だった。

昭和32年(1957年)那覇中学に入学、放送クラブに入部する。無線関係のクラブがなかったからである。校内放送用のアンプを操作したりしたが、自宅ではラジオの自作に挑戦した。6C6-6ZP1-12Fの真空管を使った「並4」ラジオを作った。「家にはコンセントがなく電気はんだコテが使えないため、すでに嫁いでいた姉の家に行きはんだ付けをした」と言う。作ったラジオは見事に放送を捕らえた。「音が出た時には感激した」と、今でもその感激が忘れられないそうだ。

今でも保管している真空管IT4