[最高学府不在] 

沖縄にアマチュア局がなかった理由を探ってみたい。戦前のハムは大学か旧制高等学校の若い卒業生か生徒がほとんどであった。戦前、沖縄には大学はなく、旧制高等学校もなかった。進学者の多くは九州か東京の高等学校に行かざるをえなかったかと思われる。そのために、沖縄で免許を取得するような若者がいなかったと推定される。

もちろん、アマチュア無線があることを知っていた若者はいた。那覇市の内間伸(JR6AL)さんもその一人であり、昭和49年(1974年)1月の琉球アマチュア無線クラブでのミーティングで、昭和12年(1937年)にアマチュア無線を知ったと当時のことを話している。「小学6年生の時、私設無線局というものを知った。興味があったので日本電気研究所にハガキを出したりしました。水晶とはなにかと聞いたりしました」と。

[アマ無線再開活動] 

太平洋戦争により停止されていた日本のアマチュア無線の再開は、同じ敗戦国のドイツ、イタリ―に比べて大幅に遅れた。日本を統治したGHQ(連合国総司令部)の意向が色濃く反映されたためである。JARLは驚くべき早さで再建され、再開活動を始めたが、放送や通信の基本方針が決まったのは昭和25年(1950年)の「電波3法」の成立によってである。

戦前の日本のプリフィックス。実際には昭和9年にJ1がJ2になるなど変化した。(当時の無線と実験掲載の誤りを訂正)

アマチュア無線は翌年6月に最初の国家試験が行われたものの、実際に免許が下りたのはさらに1年後の7月であった。戦前のアマチュア無線は昭和16年(1941年)の12月に最終的に禁止されたため、11年振りにアマチュアの電波が日本の空から世界に飛び出したことになる。しかし、米国の領土となった沖縄はさらに遅れた。

[J9/KR6米軍ハム] 

沖縄では戦後すぐに、米軍関係者によるアマチュア無線が始まった。当初のコールサインのプリフィックスは「J9」だった。戦前の日本のプリフィックスは本土がJ1からJ7、朝鮮(当時)関東庁(中国の一部)がJ8、台湾を含む南洋庁がJ9であった。現在では調べようがないが、米国軍人がほとんどであった米人ハムは、本土でも、大陸でもない南の沖縄をJ9としたと想像できる。

高良さんの調べによると「J9のコールサインをもらったのは米本土で免許を得たれっきとしたハムだった。占領者だからといって勝手にアンカバーをしたわけではなさそうだ」と言う。米人ハムのコールサインは、その後KR6に変更されるが、その時期を高良さんは米国のコールブックで調べて「昭和22年(1947年)まではJ9を使っていたようだ」と推測している。

米国のコールブックの「K」コールの一部。1964夏号

[本林さんのHP] 

Kで始まるプリフィックスは米国およびその統治地域のものが多い。次ぎの”R”が何を意味するかがはっきりしない。当時のKR6局のQSLカードを調べてみると、ほぼすべてが「オキナワ」と表示し「琉球」とは記載していない。しかし、高良さんは「琉球のRだと思う。その次ぎの6はKH6、KC6、KS6、KG6など太平洋の米国統治の多くの島が6であることに類似性がある」と分析している。

九州・福岡の井波真(JA6AV)さんは、早くからアマチュア無線関係で沖縄とかかわり合い、JARLの副会長を長年務めたハムであるが、やはり「Rは琉球を意味すると思う」と指摘している。「グリーンランド、ガンタナモがG、ミッドウェイがM、ジョンストンがJ、プエルト・リコ、パルミラがPであるなど、Rは琉球と推定できる」と言う。

幸いなことにコールサインの変遷については、先に触れた本林(JJ1WTL)さんが膨大な労力を割いて調べ上げたホームページがある。世界のコールサインの変遷を綴ったものであり、中でも日本についてはアンカバー時代から現在までの歴史を詳しくまとめておられる。それによると「J9からKR6への変更時期ははっきりしないが、本土の米軍関係局がJ2~7をJA2~9に移行させた昭和24年(1969年)1月1日ではないか」と推定している。

もちろん、この時期本土にも日本人ハムはいない。米軍関係者のみの局であるJA2~9は昭和27年(1952年)6月にKA1~9に変えられた。理由は日本人にアマチュア無線が許可されるため、JA1~9のプリフィクスを空けることになったからである。しかし、沖縄では日本人への許可の予定がないため、KR6の時代はいぜんとして続く。

[KA局問題] 

ついでに、本土のKAプリフィックスについて触れておく。現JARL会長である原昌三(JA1A)さんは「戦後、日本に駐在した米軍ハムは我々にいろいろと教えてくれた。技術的な面もそうであったし、再開についても協力をしてくれた。KA局を訪ねると立派なシャックでありうらやましかった」と、思い出を語っている。しかし、日本人にアマチュア無線が再開された後もKA局はMARS(軍用アマチュア局)として残されたことから問題となった。

米国のARRL(米国アマチュア無線連盟)はその時点でKA局をリストから外したが、KA局の団体であるFEARL(極東アマチュア無線連盟)は「アマチュア無線局として免許された」との見解であった。日本の電波管理局は「アマチュア無線局の許可ではなく、14MHzのみを認めたMARS局」とJARLの質問に答えている。「アジア各地のKA局はすでにそれぞれの国のコールサインに変っており、日本だけが異常であった」と原会長は言う。

昭和30年(1955年)の日米合同周波数委員会でFEARLは「運用面の制限をする」と言い。また、郵政省は「MARS局とアマチュア無線との交信は禁止する」と発表。JARLはそれを受けて世界各国のアマチュア無線団体に「1952年以降のMARS局との交信はすべて合法的な通信とは認められない」と通達した。