[ARMSの発足] 

KA局についてもうしばらく続ける。昭和29年(1959年)米国FCC(連邦通信委員会)は7月15日以降はMARSを認めない、と通告したためMARSはAMRS(軍用補助局)に名称を代えて、日本の電波法の範疇外になる方法を取った。井波さんは昭和30年(1960年)1月25日付けで米軍人リチャード F.シルバーマンさんがAMRSから受けた免許証のコピーを保管している。

免許証は在日米軍司令部が承認したものとして、有効期間2年間、免許所持者が現住所で運用する、という条件付き。最後に「この免許は日米間で締結された安全保障条約第3条、行政協定の電気通信協約に基づくものである」と締めくくられている。このため、KA局問題はその後も解決まで長引くことになる。

JARLは「KA対策委員会」を発足させて、問題解決を政府にまで働きかけた。しかし原会長は「すっきりした解決はえられなかった。KA局が自然な形で無くなっていったのはそれから約20年かかった」と振り返っている。このころの詳細については、この連載の一つである原会長についての「私のアマチュア無線人生」で触れている。

ちなみにMARSは1925年に米国陸軍内に生まれたARRS(米アマチュア無線システム)が前身であり、当初は軍内で無線通信の技術開発をすることが目的であった。その後、1948年にMARSとして再生され、全軍的な組織になっている。現在では米国FCC(連邦通信委員会)によるアマチユア無線の免許取得者が入会条件。アマチュア無線クラブ局の一つともいえそうだ。

KA局の団体であるMARS(軍用補助局)のマーク。

AMRSが発行した米軍人への免許証

[沖縄の電波行政] 

再び、沖縄の話しに戻す。米国はアジアとくに朝鮮半島、中国、台湾の政治情勢が不安定なことから沖縄に米軍を駐留させ、沖縄を「太平洋の要」として位置付けた。このため日本本土は国連軍によるゆるやかな統治であったのに対し、沖縄では米軍による直接的な軍政が敷かれた。米軍将校の高等弁務官が最高実力者となり、その下に沖縄人による琉球政府が置かれる政治体制であった。

昭和25年(1950年)朝鮮戦争が勃発すると、米国は沖縄との多少の融和をねらってUSCAR(琉球列島米国民政府)を発足させるが、直接統治の実態はあまり変らなかったといわれている。このため、立法も本土と関係なく進められ電波行政も独自なものとなっていた。軍政下だけにすべての電波は米民政府が管理、無線通信は禁止され続けた。

昭和30年(1955年)ようやく電波に対する基本を定めた電波法が制定された。しかし民政府は「許可書なくして無電送信機を所持することを厳しく禁止する」布告を出すなど、アマチュア無線再開など程遠い状態であった。その背景には昭和26年(1951年)の講和条約により、日本の独立を認める一方で沖縄は永久に米国領土とすることが決められたことがあったらしい。

電波行政は琉球政府工務交通局電務課の所管であった。当時、その電務課に勤務していた石橋勇(JR6AB)さんは「電波法ができる前から島内通信は離島も含めて行政府がやっていた。1955年の電波法は本土法を真似たもので関係のないものは削られていた。もちろん、アマチュア無線についてもそうであった」と、後に語っている。

1978年ミーティングでの石橋さん(右から3人目)

[アンカバー通信の増加] 

電波法が制定されてもアマチュア無線の許可の兆しのないことに業を煮やした若者があちこちでアンカバーで電波を出し始めたことについてはすでに触れた。仲地昌京(JR6AY)さんは当時のことを後に「昭和31年(1956年)ころに那覇高校の物理クラブが出来た。良く分らないままに大きなトランス、大きなタンクコイルを使って組み立て、アンテナは見つかるとまずいということでただ屋根に引っ掛けただけだった。ある時、MPがジープで近くまで来たため、慌てて機械を隠したことがある」と語っている。

話しはさらに続く。「卒業した後、後輩がますますエスカレートして、堂々と”私は那覇高校の生徒であります。ただ今1KWを入れています”としゃベリ始めた。だんだんエスカレートしてきたので、アマチュア無線研究会を作りアンカバーを押さえようということになった」と。そのころ又吉信篤(JR6AO)さんは沖縄工業高校2年生で「那覇高校が派手にアンカバーをやっていたので訪ねていったことがある」と語っている。

又吉さんは、そのころの状況を「学校で法規も教えるので悪いこととは知っていた。また、学校の裏には電波監視所もあり、アンカバーをやるのには大変に不都合だったが、那覇高校の刺激を受けた」と続けている。アマチュア無線研究会は、那覇高校の東伸三(JR6AF)さん、仲地さんが中心となっての活動から始まった。

[琉球アマチュア無線研究会] 

仲地さんは「将来免許のための試験があってもどんな問題が出るか分らない。集りが無ければ免許ももらえないのではないか」と高校生に話して、研究会を発足させるが、研究会に参加したのは琉球大学、那覇高校、沖縄工業高校の学生だった。昭和32年(1957年)のことである。そして「まずSWLをやろうと沖縄で始めてSWLナンバーを発行した」と仲地さんは当時を語る。

その後、活動は活発化し、又吉さんによると「グループで学校を休み郵政庁ヘ陳情に行ったり、電監に見学に行った。電監ではアンカバーをやっているのは君達だろうといわれた。電監は実情を知っていたようだ」と言う。いずれにしても陳情の返事は「時期早尚との返事だった」らしい。また、OARC(米人によるアマチュア無線クラブ)にも協力を依頼したりした。