[平安名さんの協力] 

この時に協力してくれたのが本土の大学に進学してハムになっていた平安名常功(JA1BJZ)さんであった。夏休みに帰省した平安名さんは本土のアマチュア無線の状況を説明し、やるべきことなどを話して行動をともにする。けなげにも研究会の学生たちは自分たちの小遣いを集めて関係機関の人と会食したこともあった。

OARCのミーティングに参加して協力を要請したのは平安名さんと仲地さんだったという。嘉手納基地に出向き「英単語を並べるだけの演説をぶつが果たして理解されたかどうか疑問だった」と、恥も外聞もない活動が続いた。しかし、効果はあったらしく、アマチュア無線再開は徐々に動き出していた。

[高良さんの疑問] 

このような沖縄のアマチュア無線の再開期の様子は、高良さんの収集した資料によってまとめることができる。高良さんは早くから当時の新聞、雑誌の関連記事を収集し、また、さまざまなハムクラブの関係資料を集めてきた。このため、JARLが昭和51年(1976年)に発行した「アマチュア無線のあゆみ」にも高良さんの資料が活用されて「沖縄のアマチュア無線」の項目が書かれている。

高良さんはかろうじて、沖縄におけるアマチュア無線の第1回試験に間に合った世代であり、歴史をまとめるのにふさわしい年代でもあった。その高良さんは「当時の本土にあるJARLが沖縄のアマチュア無線再開運動についてどのように見ていたのか、また、何らかの行動を起こしたのかを知りたかった」と長い間思い続けてきた。

[JARLはどうだったのか] 

JARLは戦後すぐに本土でのアマチュア無線再開運動を開始し、再開された後にはアマチュア無線普及のためにさまざまなことを進めていた。その一つが、再開後も米軍関係ハムが使っていたコールサイン「KA」問題であったことはすでに触れた。このころ、JARLで活動し、昭和31年(1956年)に副理事長となった庄野久男(JA1AA)さんは、沖縄についてこう話している。

「JARLにKA対策委員会を設けて、電波法上で不合理なKA局と合わせて、沖縄のKR6局について、行政に働きかけ、国会でも問題にしてもらった」と言う。しかし「沖縄のアマチュア無線再開を支援することはできなかった」らしい。日本の領土でもない沖縄のアマチュア無線行政に手出しできる状況ではなかった。高良さんも「当時、沖縄は日本ではなかった。軍事優先の島であり、日本政府や他の団体がものを言える状態ではなかったと思う」と振り返っている。

とはいうものの、庄野さんはアマチュア無線雑誌紙上で、沖縄のアマチュア無線再開を訴え、その進行状態を何度か報告している。昭和33年(1958年)10月号の「CQ Ham Radio」のDX欄に「沖縄の同朋にもon the airの道を」と題した1文を掲げ、後には再開間近の報を伝えてもいる。

琉球大学の学生であった照屋樹雄(後、JR6CF)さんは思い余って庄野さんに手紙を書いている。「早く沖縄でもアマチュア無線ができるようにしてください。コールサインもJAになるように、という内容だったと思う。庄野さんからは返事をいただいた」と照屋さんは言う。その手紙は庄野さんによって誌上で紹介された。その後も照屋さんはしばしば沖縄の動向を連絡している。

MARS、AMRS問題処理に当たったJARLの原さん、庄野さん

[井波さんの活動] 

当時、九州・福岡にいた井波真(JA6AV)さんは、親しかった米軍板付基地の米軍ハム仲間に誘われて、沖縄の嘉手納基地でのハムミーティングに参加している。沖縄に行くにはパスポートが必要な時代であったが、軍の輸送機でのパスポート無しの往復であった。そこで、沖縄の電波事情なども知らされていた。昭和29年(1954年)のことであった。

さらに、井波さんはその後も沖縄のアマチュア無線の状況を掴もうとした。戦前に無線電信講習所の同期で戦時中は戦友でもあった富田成名(JA1BGK)が、本土のアメリカ大使館勤務の後、沖縄の米軍ラジオ局VOA(ボイス・オブ・アメリカ)に転職し、沖縄に赴任していた。その富田さんから井波さんは相談を受けている。

沖縄のアマ無線再開の情報収集に努力した井波さん

[富田さんからの相談] 

富田さんは「沖縄ではアマチュア無線ができない。しかし、私のボスはKR6でアメリカ本土と交信している。何とか日本人でもKR6が運用できないものか。調べることはできないか」と、井波さんに相談している。当時、日本放送協会(NHK)に勤務していた井波さんは那覇に住む知人の石垣長昭(後KR8IV)さんに依頼し、琉球政府工務交通局郵政庁電務課の真喜屋(JR6TEH)さんに尋ねてもらった。

真喜屋さんの答えは「KR6はアメリカの国籍に限る」と言うことであった。そこで、井波さんは郵政省九州電波管理局とも沖縄のアマチュア無線を話し合っているが「沖縄はやりようがない」とまで言われている。結局、井波さんはJARLとは別に情報収集をし、側面から再開を支援したものの「実現しなかった」と言う。そして「アメリカ軍政下の沖縄についてはJARLはとくにアマチュア無線の発足の運動はしていない」と言う。

[沖縄アマチュア無線連盟] 

昭和33年(1958年)3月、米国民政府と琉球政府関係機関の間でアマチュア無線免許の方針が決まる。仲地さんが会長に就任していた「琉球アマチュア無線研究会」も一段と試験対策の勉強に力を入れるが、このころ高良さんはまだ中学生であり、詳しい動きは知らなかった。昭和35年(1960年)4月、高良さんは沖縄工業高校電気科に入学する。無線通信にのめり込んでいた高良さんは「普通高校に進学するつもりは全く無かった」と言う。入学してすぐに無線クラブに入部する。

高良さんが入学した沖縄工業高校(同校のホームページから)

アマチュア無線を熱望する若者達は「アマチュア無線再開近し」に沸き立った。それでも実際に動き出すまでの時間は長かった。高良さんが高校に入学した年の5月になって、ようやく電波法の一部が改正され、6月24日に改正法が施行されることになった。再開を前に沖縄タイムスは平安名さんのシャックを紹介している。