[アマチュア無線再開] 

沖縄の新聞、本土のアマチュア無線雑誌でも、沖縄のアマチュア無線復活の記事が増え出した。「琉球アマチュア無線研究会」では、再開を前に「アンカバーは自粛するとともに、学生中心の研究会を発展的に解消し、一般の参加も得る組織にしよう」と動き出す。平安名、仲地、東伸三(JR6AF)さんの3人が中心となりOARL(沖縄アマチュア無線連盟)が7月10日に発足する。結成式には約70名が出席し会長には平安名さんが選ばれる。

この免許再開については、この当時、琉球政府工務交通局電務課にいた石橋勇(JR6AB)さんは後に次ぎのように語っている。「(アマチュア無線再開は)下からの盛り上がりだけでは絶対に出来なかったと思う。(米軍関係ハム)KR6の働きが大きかったと思う」と。

これまで、戦後の沖縄でのアマチュア無線の認可に対して「再開」という言葉を使ってきた。戦前、個人のハムが居なかったことを考えると「再開」はふさわしくない。しかし、行政と学校という組織が、戦後になってアマチュア無線と言い代えられた「短波長私設無線電信無線電話実験局」の免許を受けていたという事実から、ここでは「再開」を使っている。

高良さんが受け取った受験案内-手書きだった

[沖縄のアマチュア無線資格制度] 

発足したOARLは、安里にあった沖縄無線技術学校を会場にして試験に備えての講習会を始めた。高校1年生の高良さんもそこに参加し、電信(モールス符号)の勉強をした。10月14日、電務課から資格試験についての公示があり、17日から電務課で受験受付が始まった。沖縄のアマチュア無線の資格制度は本土と異なり、1級、2級、3級の3ランクであった。本土では再開時に決められた1級、2級の2ランクが、昭和33年(1958年)に改正されて1級、2級、電信級、電話級へと4ランクに変更されていた。

沖縄が3ランクになったことについて、高良さんは「沖縄では無線技術士、通信士ともに1級-3級があった。また、国際的には電信ができないアマチュア無線局は認められていなかった。それに倣ったものであり、本土の電信級・電話級に匹敵するものが沖縄の3級であり、合理的だったと思う」と言う。

高良さんが受験した3級の受験票

[本土のアマチュア無線] 

沖縄と本土とのアマチュア無線資格の問題にさらに触れたい。本土のアマチュア無線再開は、当時の郵政省とJARLが会合を重ねながら方向を決めた。電信資格が必要ない2級免許はRR(国際電気通信条約無線通信規則)では許されないことは認識されていたと言う。現JARLの原会長は「新免許の検討に当たってはさまざまな意見があり、大いに揉めた」と当時を語っている。

それによると「太平洋戦争敗戦の要因の1つがエレクトロニクス技術、とりわけ無線通信技術の遅れにあった。新生日本の復興のためには若年層がエレクトロニクス技術知識を深めなければならず、その一つとしてアマチュア無線を盛んにする必要がある、という雰囲気に満ちていた」と言う。事実、その後はハムがラジオ受信機、テレビ受像機の開発に貢献し「電子立国日本」を作り上げる大きな力となっている。

このような背景があって「電信を知らなくともエレクトロニクスの技術の習得に問題はない、と言う意見が最終的に大勢を占め、2級が誕生した」と原さんは説明している。海外からの批判には「海外に混信を与えなければ良い、という国内法を優先して乗り切った」が、その結果「日本のエレクトロニクス産業が世界のトップレベルになったわけで、当時の郵政省幹部の英断は素晴らしかった」と評価している。

[電話のみはなし] 

が、沖縄はそうではなかった。米国の主導の下で国際的な基準に従った。1級は空中線電力(入力)1000W、2級は100W、3級は10Wに制限された以外は使用周波数はすべて同一であった。高良さんはその当時のKR6局のプリフィックスについても詳細に調べている。「ノビスクラスはKR6N・・であり電力は75W、テクニシャンクラスはKR6T・・で、周波数と電波形式に応じて1000W、100W、50Wとなっていた」と言う。

この制度を決めた時、本土のハムの資格との関係が問題となった。琉球に本籍を持っており、本土でアマチュア無線技士の資格を得た人は、第1級、第2級が沖縄の1級、2級、電信級が3級の全科目の試験を免除された。高良さんは「平安名さん、山里平一郎さんはともにJA1で開局したが、第1回の試験は免除されたはず」と言う。

逆に「私の先輩が第1回の試験に合格し従事者免許を取得したが、本籍が沖縄になかったために開局が認められなかったケースもあった」と高良さんは指摘している。さらに資格制度のことを記すと、昭和47年(1972年)に沖縄が本土に復帰する前に、第3級は電信級・電話級となり、再び本土の資格変更にともない3級に戻った。プリフィックスは米人ハムのKR6に対しKR8に決まった。KR7が無くKR8となった理由は不明である。

[高良さんはハムに] 

最初のアマチュア無線技士資格試験の受験者は1級11名、2級17名、3級45名の合計73名であった。10月から11月にかけて予備試験、学科試験、実技試験がいずれも沖縄無線技術学校で行われた。この時の様子を久場敏夫(JR6AP)さんが後に語っている。それによると「当時は1、2、3級すべて電信術が課されていた。試験官は黒めがねをかけた体の大きな人だったが見かけよりもやさしかった」と記憶している。

そして、その試験官は「電鍵をパカパカと打って”早さはこのくらいかな。どうだとれるかな””もうちょっと遅いかな”などと言いながらの受信テストだった。受験生と試験官が相対して座っている机を皆が取り囲み、ワイワイがやがや,押し合いの中でのテストだった」と言う。その後、久場さんは「試験官にお願いして皆に別室に退場してもらい、静かな雰囲気でテストを受けることができた」らしい。

久場さんの開局当時のQSLカード