[RARCの活動] 

高良さんももちろんRARCの会員となる。まだ高校生であり、むしろ若さを発揮してミーティングの開催などのイベントを手助けしたりしたが、その後QSL係や機関紙発行を担当し、後にはDX欄を設けて執筆した。

発足したRARCは早速3月に50MHzと144MHz帯の開放を陳情したが「米軍が使用しているので駄目」と言われている。「当時の陳情書には必ず英文を添付した」と内間さんは思い出を語っている。6月1日の「電波の日」には公開実験を行っている。公開実験は「デパート山形屋」と「デパート大越」の両屋上、2方向の移動局間で行われるなど大規模なものであった。

電波の日の公開実験で運用する高良さん

[琉球放送入社] 

アマチュア無線に熱中していた高良さんにも就職の時期がやってきた。高校3年生の夏休みの実習では琉球放送と琉球電々の両送信所の見学があった。「その影響もあって琉球放送」を受験、昭和38年(1963年)に入社する。「琉球放送」はすでにテレビ放送も行っている「兼営局」であったが高良さんが配属されたのはラジオ技術課であった。

「琉球放送」の歴史は複雑であり、その前身の一つは米軍の沖縄上陸とともに放送が始まった「WXLH」であり、昭和25年(1950年)5月に「琉球の声」として日本語放送が開始された後に、経営は軍政府、民政府、財団、民間へと移り変わり「琉球放送」へと発展している。余談ではあるが高良さんが放送界に入ったころの沖縄のラジオ放送は日本語、英語、中国語の放送があり、高良さんは「電波過密地帯だった」と言う。

戦前、当然ではあるが沖縄のラジオ放送局はNHKによる「沖縄放送」1局であった。戦後は米国の民間や軍の放送が開始され、昭和47年(1972年)の日本本土復帰前には、650KHzから1420KHzまでの間に10局が放送を行っていた。内訳は日本語放送4、英語5、中国語1であった。

[SSBに挑戦] 

「日本語はKSAR、英語はKSBKのコールサインで放送。英語放送はAP,UPIの通信社のニュースを受信して放送に使っていた。収録を手がけたりミキシングの仕事をしたり楽しかった」と高良さんは言う。定期的に宿直もあったが、その合間にアマチュア無線も手を抜かず、相変わらず自作に没頭したり、RARCの集まりにも加わる生活だった。

7月には空中線電力100Wへの変更申請を行い、終段管に829B、変調管に807を使用したPP(プッシュプル)を自作、8月1日に認可される。また、SSB(シングルサイドバンド)の交信が始まったのに対応してFT-241Aでフィルターを自作するが「うまくいかなかった」と言う。

このころ、多くの人がSSB回路の自作に取り組むが成功した人は極めてまれであった。高良さんは仕事も多忙だったこともあるが、約一年以上も挑戦したがついにあきらめて、やむなくクラニシ社製のエキサイターを購入してSSB送信機を作り上げる。そのため、14MHz、21MHzのSSB機の追加申請したのは昭和39年(1964年)の11月になってしまった。

[KR6局からの運用] 

この年、RARCは毎年の総会の他、定例のミーティングを第1日曜日に無線技術専門学校で行うことを決め、また、会報も充実した内容になっていった。8月には会員の技能を磨く目的で「カルティベート・コンテスト」が実施されるなどイベントも増えだした。昭和40年(1965年)には沖縄で初めて女性の合格者があり、富村澄子さんが第1号のYLハムKR8DHとなる。

この年の4月にも再び、50MHz、144MHzの両バンドの開放を電務課に陳情している。5月15日には「米3軍記念日」の行事に参加、米軍基地のKR6ZZで初めて日本人による50MHzの運用が行われた。KR8CH、CI、CN、BWの4人が交信したが「本土のJA局は日本語のできるKR6に大騒ぎした」と会報は報じている。「米3軍記念日」はそれまでばらばらだった陸海空の創立記念日を、1957年に毎年5月の第3土曜日に統合させたもので、この日は世界の米軍基地が民間に公開されている。

[退社しユニオンサプライでアルバイト] 

高良さんはこの年に、楽しく働いていた「琉球放送」を退社する。「特別に理由があったわけではないが、今思うともっと自由にアマチュア無線を楽しみたかったからだったような気がする」と振り返っている。退職後、泊にある「ユニオンサプライ」社でアルバイトを始める。

高良さんはユニオンサプライでアルバイトした(右)

「ユニオンサプライ」社は米軍に機械類を納入するとともに、放出品を入手して販売する仕事だった。「もちろん、納入も、入手も入札、競売であったが、当時同じような業者は多かった」と高良さんは言う。高良さんにとっては魅力ある職場であった。容易に輸入できない機器も手に入れやすかったし、放出品にも珍しいものがあったからである。

8月になると電務課からVHFバンドの開放が出来そうだとの情報が入る。高良さんは8月14日から3日間行われた壷屋小学校での公開実験で50MHzを移動局として組み入れるつもりであったが間に合わなかった。「電務課は公開実験に間に合わせるようにしたい」といってくれたが不可能となった。

電務課によるとバンド幅、電波形式などについて「USCARからまだ何らの指示がないためだった」と言う。VHFの開放は11月になって実現した。50-51MHz、144-148MHzだった。申請した3人に50MHzの予備免許が下りたのは翌年3月であった。

壷屋小学校で公開実験した時の参加各局