[琉球電信電話公社入社] 

昭和41年(1966年)高良さんは「琉球電信電話公社」に入社する。入社後、しばらくするとあこがれていた東京・秋葉原の電気街に行けるチャンスがやってきた。その年の8月、第2級無線技術士受験準備のために3カ月の期間、東京調布のNTT中央学園で研修を受けることになった。初めての本土であり、パスポートを必要とした。講義はアマチュア無線で無線関連技術の勉強をしていたため「苦痛ではなく楽しかった」と言う。

初めての休みに「何はとにあれ、秋葉原に駆けつけた。雑誌やハム仲間の話しで想像はしていたが、電子機器、電子部品などの機材の山に驚き、興奮してしまった」とその時の様子を高良さんは語る。当時の秋葉原は現在と違いラジオマニアのための自作用電子部品や部材が大量に山積みされて売られていた。 高良さんは休みのたびに秋葉原参りとなったが、欲しい物ばかりであり何を買うかに迷っていた。「研修期間が終わりに近づいたので思いきってSSBの100W機と受信機を買うことにした。総額約14万円、米ドル400ドルであり、私の給料の10カ月分だった」と言う。沖縄に持ち込む時には税関で「輸入できない」と揉めた。当時、出入国管理部に勤務していたハム仲間がおり「その人の証明で無事に入手できた」らしい。



このころ沖縄は日本から見たら完全に外国であった。上から高良さんの渡航証明書、出入国記録、検疫証明書

[通信所勤務] 

昭和41年(1966年)12月に沖縄に帰った高良さんはすぐにオールバンドSSB、CWで100Wの申請をする。一方、勤務は帰ってくると国際電話の通信所に代わった。当時は宮古、八重山、南大東島間では短波を使った公衆電話が使えるようになっており、香港、マニラ、オークランド(アメリカ)へはオートトークの短波による国際電話が構築されていた。

高良さんらの仕事は常時入力をモニターしておき、通話が難しくなると他の周波数に切り替える役割であった。オートトークは片方がしゃべり出すと片方は受信に自動的に変わるもので「それなりに便利であったが、海底ケーブル、通信衛星利用の国際電話の現在とは違い気が許せない仕事であった」と高良さん。

[DXCC130] 

12月にはKR8とJARLの関係について問題提起があり、翌年の3月に会員の多くが一括して加入したが、会員資格は準員にとどまった。この12月には会員が日本の人工衛星ロケットL4S―2号の電波信号の受信に成功している。さらに、翌年の4月にも同L4S-3号の信号を受信している。

このようなアマチュア無線クラブでの活動の一方で、高良さんは翌年、翌々年にかけてアンテナを八木アンテナからクアッドアンテナに代えたりして、送受信の効率を上げることに熱中した。その結果、44年(1969年)10月に130エンティティ(領土)のカードが揃った時点でDXCCのメンバーとなる。

[ODXRC発足] 

この年の2月1日に高良さんらはODXRC(沖縄DXラジオクラブ)を結成する。「ハムが増加するにともない、さまざまな目的を持つ人が増えた。DXに熱心な仲間が集ろうとの声が強くなったため、新たな組織をつくることになった」と高良さんはいう。会長に徳村政人(KR8EA)さんを選出、高良さんは書記に就任している。

当初のメンバーを紹介しておくと、2名のほかに久場敏夫(KR8AP)嘉手苅仁栄(AX)大見謝滋(BL)浜元盛仁(BY)湖城哲夫(CA)大見謝昇(DE)福原裕成(DK)瑞慶覧長定(DU)高安繁彦(EI)さんらであった。ODXRCを発足させたこの年の5月に高良さん結婚、10月には第1級アマ無線を受験して合格しており、この年は高良さんにとっては忙しい年となった。

高良さんの当時使用していたアンテナ

[本土復帰] 

このころ沖縄にとって歴史的に大きな転換期がやってきていた。米国は沖縄住民の米軍支配に対する反発がますます強まってきたことに憂慮、一方日本政府も沖縄の日本への復帰に積極的に取り組み始める。このような情勢を受けて、早晩、日本に復帰するとの観測の元にさまざまな動きが始まった。

高良さんがDXCCになった10月に、JARLの九州支部長である浦上正二(JA6AX)さんが懇談のために沖縄入りしている。浦上支部長は沖縄のハムのJARL加盟、養成課程講習会、復帰後のコールサイン変更などについて説明、要望を聞いた。同時にクラブ局用の無線機器一式を無期限で貸与する、というプレゼントを行っている。

本土復帰にともない、アマチュア無線も「本土並み」となり、それまでの沖縄独自のプリフィクスも変更せざるをえなくなる。また、資格制度も大きな違いがあるため、それを整合させる必要もあった。JARLは復帰を前に動き出した。本土で実施されている養成課程講習会は急増する免許受験者に対応して、一定の講習を受講した後、簡単な試験で資格を与える制度で、昭和40年(1965年)に制度が決定し、翌41年(1966年)から始められていた。