[復帰準備始まる] 

昭和45年(1965年)。大阪で万国博が開かれた年であった。昭和39年(1964年)の東京オリンピックが日本の戦後の復興が完了したことを国際的に示したとすれば、この万博は日本が経済大国の仲間入りしたことを知らせたといえる。この年の1月、RARCは開催した役員会で本土復帰にともなう問題を話し合う。

本土復帰の正式な日程が決まっていなかったものの、前年の8月30日に電波法の一部改正、施行により第3級は電信・電話級アマチュア無線技士に変更され、操作範囲は本土と同じになり、空中戦電力も入力10Wとなった。この資格の切り替えを1971年8月29日を期限とし「申請なき場合は無効となるので要注意とRARC会報に掲載されていた」ことを高良さんは記憶している。

また、新たに局の申請をする場合には「3アマを電信・電話級に切り替えた後でないと予備免許は出さない」との指示もあった。さらに、本土で実施されていた「養成課程講習会」も認められることになったものの「結局、本土復帰になるまでは沖縄では実施しなかった」と高良さんは言う。

[モービルクラブ発足] 

この当時のRARCの会報を眺めていると、活動が一段と活発となってきていることが伺える記述が目立つ。本土復帰の準備で多忙な一方で、技術関係の記事が掲載され、2月には公開実験が沖縄赤十字社を借りて行われた。赤十字社との接触が沖縄にもモービルクラブを結成する引き金となった。

マイカーに主にVHF機を積みこみ、異動しながら交信するモービルハムは、本土では昭和30年代(1955年~964年)中ころから増え始め、徐々に全国各地に組織ができJMHC(日本モービルハムクラブ)として全国大会が開かれるようになっていった。車を所有し、アマチュア無線の免許を持っていることが若者のステータスであったことから一時はJMHCの会員数は急増した。

沖縄でもモービルハムが増え始めた。車を連ねてのミーティング

しかし、車の普及が進み所有することが当たり前になり、ポケベルによる連絡ネットワークが始まったことなどが原因で、昭和40年代(1961~1974年)代の後半には衰退していった。ただし、車の機動力と、無線の速報性は災害時の緊急連絡用として評価され、各地では「無線赤十字奉仕団」として日本赤十字との関係を深め、その機能は現在でも残っているところが多い。沖縄でも本土復帰を前に組織が出来あがった。

[クラブ免許] 

一方念願であったクラブ局設置は3月の制度認可を受けて、RARC、ODXRCともに申請。5月にRARCのKR8YAA、7月にODXRCのKR8YABの免許が決まる。このクラブ局免許について、又吉さんは平成13年(2001年)3月になって思い出を綴っている。設置を相談した電務課は「本土の電波法ではクラブ局ではなく、社団局となっており社団法人のこと」と主張した。

RARCのクラブ局KR8YAAが許可された。8YAAのカード

又吉さんは「本土では3名のクラブ局、小学校のクラブ局が開設されていますが」と説明するが効果がなかった。同課の職員の一人が「近く九州に出張しますので、その点も調べてきましょう」と言い、その結果待ちとなった。その職員が出張から帰島すると「この問題は簡単に解決、クラブ局開設は嘘のように前進した」と言う。

[オールバンド入力1kW] 

昭和45年(1970年)1月6日、高良さんの手元に第1級アマ従事者免許証が届く。14日、オールバンドで入力1KWへの変更申請を出し、6KD6×4のリニアアンプの自作を開始する。許可は2月16日に下りる。トップクラスの資格をもち、設備も充実した高良さんはますますDXに熱中するが、同時にODXRCでも中心的な存在になっていった。

会報の「DX欄」を担当して、交信状況のレポートを掲載し、2月には公開実験のための移動局の許可を得るが、実際の実験は6月にずれ込んでしまい、那覇市のガキヤラジオ店で行われた。一方、勤務は短波通信からVHF、マイクロ中継局へと代わる。

本土や周辺の島々の間をマイクロ波で結ぶ建設工事は壮大な計画で進められた。見通し距離の島とは直接送受信の設備を設け、島の向こうにある島間は前方の島の山岳に回析させるOH通信(オーバー・ホリゾン)全くの見通し外の場合は対流圏内の上層大気の乱れによる散乱波で通信させるスキャッター通信を取り入れていた。ただし、高良さんは中継局勤務であり設備構築に加わったわけではなかった。

[1.9Mで万博記念局] 

6月15日、1.9MHzが許可になり、高良さんは30日に150W局を申請する。今回も6KD6を使った送信機を自作する。8月31日、高良さんは1.9MHzによるJA局とKR8局の初交信を達成する。しかも相手局は開催中の万博会場内のJARL記念局JA3XPO。さらに記念局の運用者は島伊三治(JA3AA)さんであった。

1.9MHzの通信機を自作した

万博の記念局はJARL関西支部のメンバーが必死の努力で万博開幕直前にサンフランシスコ館内に作り上げたものであった。関西支部は記念局を独自に作り上げようとしたが予算が無く、また、会場内を飛び交う多くの通信網のために許可が得にくいことから、設置を断念しかかっていた。ところが、大阪市と姉妹都市であるサンフランシスコ市が、出展するサンフランシスコ館にアマチュア無線局を設けたいと大阪市に依頼してきた。

関西支部は喜んだものの設置までの期間があまりない。開幕ぎりぎりまでの作業の結果、なんとか間に合わせた経緯がある。また、長期間の会期のため運用者が集まらないなど苦労を重ねての運用であったが、国内外からは人気を呼んだ。その開局までの物語、開局後の話題は、この連載の「関西のハム達。島さんとその歴史」に詳しく書かれている。