[島さんと1.9MHz] 

ついでに島さんと1.9MHzとの関係を簡単に紹介したい。JARLや島さん、庄野さんら一部のハムが、1.9MHzの開放運動を積極的に進めたこともあり、昭和39年4月に期限付きの許可が出された。島さんは「1.9MHzの伝播をどうしても知りたかった」と言う。国内初交信は急ぎ自作機を作ってもらった清水彰夫(JA3JM)さんとであった。

1.9MHzは、昭和41年(1966年)6月に正式に認可され、島さんは国内外との活発な運用を始める。昭和46年8月にWAJA(ワークド・オールジャパン・アワード)を完成させるが、その時には最後に残っていた徳島に京都の菅直洋(JA3ALO)さんが台風の余波で荒れ狂う瀬戸内海を渡って運用してくれたお蔭であった。

次いで1.9MHzによるWAC1番乗りも劇的な読物になるような争いとなった。島さんのほかに松本得郎(JA7AO)さん、真中二郎(JA1MCU)さんが残った1エリアとの交信で競った。日本中のDXerが注目する中で松本さんがわずかな差でトップとなった。この話しも同連載には詳しく書かれている。

大阪の万博記念局との交信で受け取ったカード

記念局カードの裏面。島さんのサインがある

[JA6反対] 

再び沖縄に話しを戻す。1972年の本土復帰にともない、沖縄のコールサインはKR8からJR6にプリフィックスが変えられたが、その後サフィックスについて紛糾し、わが国のアマチュア無線の歴史の上では他に無い大きな問題となった。結局、この問題は解決に至らなかったが、そのいきさつについて詳細に紹介する。

RARCは本土復帰後の電波行政は本土並みになり、コールサインも変更されると考え、予めメンバーの意見を調整し、2点の基本要望を決めている。1つはサフィックスの2文字は残す、もう一つはプリフィックスのKRのRを残し、エリアはJA6管内のため6になろうから「JR6」とする、というものであった。

すでにJAでの2文字は使われているため、2文字を残すためにはJA以外にする必要がある。他のプリフィックスでとなると、当時、JAのコールが満杯になったエリアではJHやJRが使われていた。ODXRCのメンバーのなかにはJD6を望む声もあったが、「琉球のRということでまとまった」と高良さんは言う。

1969年の秋、琉球政府工務交通局電務課にこのような要望を話して交渉を始めている。電務課の回答は「JA6の最終コールの後に続けて割り振る」というものであった。同じエリアの九州と同等のコールとすることを意味し、ある意味では至極当然ではあった。しかし、それでは2文字のサフィックスは残らないことになる。そこで、問題解決をJARLに依頼することになった。

[クラブ局免許での戦術] 

クラブ局が免許されたことは先に触れているが、実はこの時にRARCはサフィックスをYAAとするよう要望した。「そのころ電務課はハムがいかに2文字を重要視しているかの認識がなかったが、我々の度重なる要望で2文字を残す方向に傾きかけていた。また、クラブ局についてもサフィックスは残すと解釈されていた」と又吉信篤さんは後に語っている。

このため、クラブ局のコールサインKR8YAAは復帰後にはすでに九州に割り当てられているJA6YAAにはなり得ない。「したがってKR8YAAは自動的にJR6YAAになり、それにともない個人局もJR6**となり我々の要望通りになるはず、と考えた」と言う。「今にして思えばつじつまの合わない考えで合ったかも知らないが、希望がかなえられるようあの手この手を労した」と又吉さんはその当時を振り返っている。

1972年4月、KR8YAAの公開実験がデパートリウボウで行われた。RARCクラブ局、KR8のプリフィクスでは最後のイベントとなった

[JR6になる] 

復帰後、沖縄のプリフィックスは要望通りJR6となる。2文字コールもそのままスライドされた。ただし、どういうわけか新たに割り振られるべき2文字はJR6MEを最後に止められてしまった。高良さんは「復帰を境にしてそれまでの申請は2文字を認め、それ以後の申請は3文字としたのでは」と推定している。ところが問題は3文字を巡ってのものであった。

新たに割り当てられるサフィックスは当然JR6AAAとなると皆思いこんでいたが、実際にはJR6QUAからの割り振りとなった。その後のサフィックスが順次割り当てられてくるにともない、全員が「おかしい」と思い始めた。この時、QUAとなった、つまり復帰後の免許第1号となったのが豊平良康さんであった。

[多忙であった再免許行政] 

豊平さんは当時のことを「2文字とか第1号とかは考えておらず、私の従事者免許が本土の郵政大臣名であったため、復帰後でなければ有効にならないだろうと思い、復帰になった5月16日に申請した。このころ電務課は与儀にあり、出かけると”この忙しい時に”と叱られた」らしい。そのため「予備免許されても落成検査にきてもらえない。何度も催促したが駄目だった。仕方なくJARLの認定制度を利用した」と言う。

再免許の折りに高良さんの28MHzは復帰前の1KWから、当時の本土の1アマと同じ出力500Wとなった。ところが徳村政人(JR6EA)さんの28MHzは50Wとなってしまった。徳村さんは何度も電務課と交渉して、ようやく500Wとしてもらったという。復帰事務で多忙な行政の混乱振りは他にもあったらしい。

[気力なくコーヒー] 

KR8局は5月15日の午前0時を期してJR6となったが、高良さんはこの日のことを鮮明に覚えている。「5月14まで最後のKR8を運用し、午前0時にはJR6になったのですが、その日に行われた復帰コンテストには参加する気力もなく、コーヒーを一杯飲んでゆっくり休んだ」と言う。10年以上、何万回もしゃべりつづけたコールとの別れは感傷的だった。