「CQ誌」のこの記事は「JR6になった沖縄のハム」と題され、現地と郵政省を取材したものである。このように調べていくと、郵政省は復帰前からきめ細かな方針をもっていたことがわかり、郵政省は「人の異動でわからなくなった」という必要はなかったし、JARL本部が「JR6AAAはどこにも割り当てない」と言質を取ったことも考えにくい。また、JARL沖縄支部が数年もたって問題にしたのかもわかりにくい。

 

「CQ誌」1972年6月号の記事

沖縄のハム達は、このような事前の決定事項そのものを問題にしたものと思われる。ようやく本土復帰を果たし、JARL最後の支部として加わった沖縄を「温かい目で見て欲しい」という願望と「沖縄が九州電波監理局管内に入っていない」ことに憤慨したハムもいたのではないか。高良さんは「電監はNZまでの2文字を免許するつもりであったが、復帰直前までにはMEまでしか申請がなかったのでは」と2文字については納得している。

今年(2006年)6月になって、高良さんの推定が正しかったことがわかった。JR6MEを取得したのは友寄力さんであり、6月に行われた「アマチュア無線展」に出てこられて、高良さんに当時の状況を話している。それによると、友寄さんが免許を申請したのが復帰の年の1月か2月であり、予備免許KR8MEが出たのが復帰前日の5月14日。「検査を受けたのが復帰後となり、KR8MEでは電波を出せなかった」と説明している。高良さんは「幻のKR8MEだったことがわかった」と納得している。

[原会長問題処理に来県] 

JARL本部は本部なりに問題解決に努力していたが、沖縄にとってはどこかでだまされているのではと疑心暗鬼となり、ますます問題はこじれていく。「JR6AAA以降はどこにも割り当てない」という郵政省の方針がJARL経由で連絡されたことを問題とした。復帰後5年もたった1976年2月29日に、浦添市の市民集会場で開かれたJARL沖縄支部総会で、コールサイン問題を巡って活発な意見が出る。どこで問題がこじれたのかいきさつが分らないまま時間が経っていくが、結論としてJARL原会長がお詫びのために沖縄入りすることになる。

5月23日、沖縄ハイツで原会長、井波本部長らと沖縄支部のメンバーとの話し合いが行われる。原会長にとっては復帰後2度目の沖縄訪問であったが、出席した沖縄支部のメンバーは溜まっていた不満を吐き出すように激しくJARLの責任を追及する。一方の原会長は冷静に筋を通しながらの答弁を行った。

[原会長、本部長とのやり取り] 

沖縄支部と原会長、井波本部長のやり取りの模様を残した簡単なメモ書きが手元にある。以下、それを記したい。沖縄支部の発言者はすべて「支部」とした。

支部 : コールを混ぜるのはいつか。
原 : 沖縄のコールははっきり区別させる。
支部 : 理由はわかるが、そのままでは困る。原会長にも責任はある。電監の話では十分な理由があればコールは変えられる。
原 : 郵政当局に当たってみる。ただし、プリフィックスを変えるなら全員の意見を聞く。JD6でもいい。コールが変るのはいやという人もいる。九州と別なコールにして欲しいならば理事会に働きかける。
支部 : 県支部総会で決定して、本部に申し出る。
原 : 総会の決定があれば本部も努力する。
井波 : 公的な決議があればプリフィックスを変えることは出来る。ただし、2文字はJA以外には与えないことが決定している。
原 : もしJD6になったら2文字は消えてQUAから始まることになる。我々は努力する。
支部 :  (郵政省はどこにも割り当てないと連絡してきた)JA6AXのさん責任はどうなるのか。
原 :  6AXさんの責任追及は止めて欲しい。
支部 : 追求はぜひやるべきである。(本)部長という名が付いているので。
原 : だから私がお詫びに来ている。
支部 : この連絡(6AXさんからのはがき)は公文であるからJARL本部の責任である。
原 : 6AXさんが当日(電監の)誰かと交渉しているが相手がわからない。本件に関しては文書がない。
支部 : 今後、こんなことが起こる可能性があるが本部としてはどうするか。
原 : 金銭的には追求出来るが本人は本部長を辞めており追求できない。
支部 : 辞めれば追求せんで良いのか。今後の問題もあるのでやるべきだ。
原 : 県支部大会で決めて欲しい。
支部 : 県支部大会をもってコールの(この)問題を決定し、原会長、井波本部長、AXさんに提出するように(支部は)して欲しい。
支部 : コール研究委員会を設置して答申する。

[呼出符号問題研究小委員会発足] 

結局、原会長との話し合いでも、沖縄支部の会員は了承しなかった。この時に話し合われたように、6月19日に「呼出符号問題研究小委員会」という長い名称の会が発足する。メンバーは最初の会長の仲嶺真仁(JR6QYV)さん以下8名。会合では問題の内容とこれまでの経緯が説明された。そしてアンケートを実施することになり「クラブのミーティングやローカル同士でこの問題を話し合い、アンケートに答えてもらいたい」との指示があった。

しかし、アンケートの集りが悪かったのか、大騒ぎしたこの問題はこのころで終焉してしまう。仲嶺さんは「2文字コールの方はあまり電波を出しておらず、この問題に関心が少なかった。もっと頑張っていたらコール変更は出来たかも知れないが、(電波監理局)の局達が出されて九州からコールが出た状態では不可だった。それぞれが鬱憤を晴らして満足してしまったのかも知れない」と後に語っている。

又吉さんも「さまざまな意見があったが、すでに使っているコールを代えたくないという人も多かったのも事実だった」と何年か後に書いている。1975年は「沖縄海洋博覧会」の年。祖国復帰を果たした後の最大のイベントに沖縄は沸きかえっており、その波にかき消されてしまったような事件でもあった。


原JARL会長、当時の井波JARL九州地区本部長