[高良さんの反省] 

コールサイン問題をもう少し続ける。支部長を1期務め終えた高良さんは、このころにはこの問題から離れていた。しかし現在では「沖縄でリーダーシップを取るべきベテランハムは2文字が維持されることにこだわり、それが認められると関心を示さなかった。もっと早くに対策を打っていたらJR6AAAも沖縄のものになったのではないか」と反省している。

戦後本土でアマチュア無線が再開された当初、同じプリフィックスでありながらエリアによってサフィックスを区別した前例があった。関東がJA1AA以降、信越がJA1WA以降、東海がJA2AA以降、北陸がJA2WA以降とされた。もっともこの時はJARLの運動もあり、ほどなくして信越、北陸ともに別のプリフィックスとなりともにAAが割り当てられている。

紛糾した問題ではあるが、それとは裏腹に「JR6QUA以降は沖縄ということを全国のDXerに印象づけた」と又吉さんは言い、また、高良さんも「JR6AAAが九州に割り当てられた時、九州のOMの中には、これで沖縄も文字通り九州の一員になった、と喜んでくれた人もいた」と指摘している。このように逆に沖縄にとってプラス効果もあったのも事実である。
又吉さんも「さまざまな意見があったが、すでに使っているコールを代えたくないという人も多かったのも事実だった」と何年か後に書いている。1975年は「沖縄海洋博覧会」の年。祖国復帰を果たした後の最大のイベントに沖縄は沸きかえっており、その波にかき消されてしまったような事件でもあった。

[郵政省の針はJA6] 

以下は余談であるが触れておきたい。今年(2006年)5月に開かれたODXRCのミーティングの席上、徳村正人(KR8EA)さんが1通の文書を披露した。本土復帰前の昭和44年(1969年)6月9日付けで当時JARL会長である村井洪(JA1AC)さんから届いたものである。内容は徳村さんが「JARL主催のコンテストに参加できないか」と質問したことへの回答であった。

JARLは「現在は沖縄のKR8局会員はJARLの準員にとどまっているが、予想される復帰を前に本土の正員並みにする体制は整っている。したがってコンテスト参加についても正式な要請が欲しい」と答えている。この返信を受けて、当時の又吉RARC会長は早速コンテストへの参加依頼を要請、7月18日に「8月のフィールドデーコンテストにKR8局の参加を認める」と回答している。

実はこの時、徳村さん宛ての返事のなかに「KR8局は復帰後にJA6の3文字から出発することになる可能性は非常に強い。皆様のご意向によっては郵政省との折衝も必要とする段階にきています」と書かれている。すでにこのころには復帰後のコールサインが俎上に上がっていたことがわかり、同時に沖縄のハムからJA6のコールを避けたい要望がすでに出されていた気配があった。

[SSTV] 

長く高良さんのハム活動から離れていたが、沖縄の本土復帰のころから約10年余りの期間、高良さんのハム生活は新しい通信方法への挑戦で埋っている。昭和の年代で言えば「50年代」でもあるが、この期間、高良さんはもっとも挑戦的であった。SSTV(スロースキャンTV)RTTY(ラジオテレタイプ)FAXそして衛星通信などに取り組んでいる。と同時にNTTでの仕事も無線関連の保守からSE(システムエンジニア)ヘ移る移行期間でもあった。

わが国でSSTVが許可されたのは昭和48年(1973年)4月であった。すでに米国などでは早くから許可されており、国内外のアマチュア無線雑誌には関連記事の掲載が増えていた。「早晩日本でも許可される」と知った高良さんは前年の1月8日に申請し、準備を進めていた。SSTVを手がけようとしたのは「新しい技術にチャレンジしたい、という気持ちの他に、沖縄は遅れていると見られるのが嫌だった」こともあった。

可変インダクターを使用した初期のSSTV受像機の基板

[スペシャライズドコミュニケーション] 

RTTY、SSTV、FAXなど音声、信号以外での新しい交信は欧米では「スペシャライズドコミュニケーション」と呼ばれ、先端的なハムは積極的に挑戦していた。日本でのSSTVは申請者全員24名に許可された。ちなみに24名のうちJA3関西が10名、JA6(JR6を含む)九州とJA7東北がそれぞれ4名で、JA1関東はわずかに1名であった。理由はわからない。

このころ、沖縄でもテレビ放送は始まっていたが、放送と異なり狭い帯域での画像電送のためには独自の送受信システムが必要であり、部材探しから始まった。残像性のあるブラウン管、撮影用の電子倍増管を求めたが、幸い米軍のレーダー設備に使われていたジャンク品が入手できた。テストパターンは米国のロボット・リサーチ社から購入した仲間からテープに入れてもらった。もちろん沖縄では高良さんが第1号であった。

申請者24名にSSTVの免許が下りた。それを伝える「CQ誌」

ブラウン管に映し出された同心円の画像。これでも高良さんは感激した

はるかに先行していた米国ではあるが、高良さんの記憶では「沖縄にいた米軍ハムの中にはSSTVを手がけていた人はいなかった」らしい。したがって、米国で発行されている雑誌や日本で時々紹介される無線雑誌の記事を頼りlに、試行錯誤ながらの組立てだった。6月1日の「電波の日」には、沖縄県の新聞である琉球新報に、画像を受信している高良さんの姿が紹介されている。

[JASAT加入] 

その後、高良さんはJASAT(日本アマチュアSSTV協会)のメンバーとなる。高良さんが始めてしばらくすると、協会が半導体メモリーを採用したスキャンコンバーターの基板キットの配布を始めたため、高良さんも組み立てた。「その結果通常のテレビ用ブラウン管でも再生出来るようになった」と言う。

「SSTVは無線通信の理論が絵になって見える。それが新鮮であった。映像の送受信が出来た時は、子供のころ3球のラジオを作りラジオ放送が受信できたとき以来の感激だった」らしい。昭和52年(1977年)にはキャラクタージェネレーターを使いデザインやグラフィックスを電送したりし、またコンテストに必ず参加し一時は夢中になった。

米国で発行されていた雑誌「スペシャライズドコミュニケーションテクニック」