高良さんのこのような映像通信の活躍ぶりが、昭和53年の5月に「沖縄タイムス」で紹介されている。その後、SSTVはカラー化され、市販のビデオカメラが使用でき、パソコンを接続して簡単に運用できるようになった。高良さんもカラー化に挑戦するため部材を集めて組立てを始めたが、途中で中断してしまった。「沖縄では最盛時には10名ほどが画像を送受信していた。交信は国内だけで海外とはやらなかった」という。

高良さんが所属したJASATの組織はユニークである。会員制度もなく会長もいないが、連絡先として事務局があるという組織である。高良さんはかつて必ず参加していたコンテストは現在でも毎年8月に行われている。また、ハムフェアにブースを出展、コールブックの発行を行っている。

[RTTY] 

同じ年の7月、高良さんはRTTYにチャレンジするために変更申請を行う。沖縄では米軍が使用していたテレタイプライターがふんだんに放出されており、なかでもTT4が大量に出回り仲間と分け合った。TT4は小型軽量であり、第2次大戦では前線で使われていたものであり、大見謝滋(JR6BL)さんが入手し各局に頒布してくれた。その後、高良さんは耐久性のあるモデル28を手に入れて使った。

RTTYを運用する高良さん

いずれの機械も商用の回転速度からアマチュア無線用速度に変えなければならず、米国のタイプトロニクス社からギアを取り寄せて交換。無線機との接続にはAFSK方式を採用することにして復調器ST-5を製作、さらにFSK方式に変更してST-6を作り上げている。

「当時、沖縄にもRTTYを始めた仲間は多く、しばらくは交信を楽しんだが、運用中の音が大きすぎるのには困った」という。それでも、高良さんにとってこの音は懐かしい音でもあった。卒業後に入社した琉球放送ではモデル15を使いAP、UPIの配信をテレタイプで受信しており、10年以上たっても音は変っていなかったからである。

米国で発行されていたRTTYの雑誌。高良さんは取り寄せて愛読した

[RTTYでアワード] 

昭和53年(1978年)12月、RTTYでのWACを完成させ、翌年にはWAZを完成している。この時は「ゾーン2の交信だけが出来ず、3、4年も遅くなった」と言う。ゾーン2はカナダ/アラスカ地区であり、RTTYをこなすハムが少なかった模様である。昭和58年(1983年)にはついにRTTYでのDXCCを達成する。RTTYジャーナルが発行するアワードを申請したが、81番目であった。

RTTYに挑戦した高良さんは、関連付加装置の自作にも熱中した。タイプを打つ速度はハムによって異なるが、早くとも遅くても一定のスピードで出力される信号再生器UT4が、後藤克巳(JA2DHX)さんによって、CQ誌の「技術展望」に紹介された。早速キットを求めて自作している。UT4は「FIFO(ファーストイン・ファーストアウト)バッファメモリーを使ったUART(標準非同期送受信)の一つで、使い勝手がはるかに良くなった」と言う。

[後藤さんとの巡り合い] 

後藤さんはNTTデータ勤務であり、昭和55年(1980年)頃にはしばしば沖縄に出張することがあり、高良さんらは「RTTYに関係する情報をいつも教えてもらった」と言う。また、沖縄入りの機会をとらえて翌年3月に沖縄のRTTY局のミーティングが開かれている。高良さんは、後に仕事でも役立てたC言語やパソコンのOS、CP/Mについても教えを受けている。

沖縄に出張に来た後藤さん(立っている真中)を囲んでのRTTYのミーティング

高良さんのRTTYでの活躍は国内はもちろん、海外でも知られるようになる。このため米国で発行されている「RTTYジャーナル」の昭和57年(1982年)昭和59年(1984年)のともに10月号の表紙に、高良さんのシャックや運用中の情景がイラスト、写真で掲載された。沖縄では「最盛期にはRTTY通信を3、40名がやっていたと思う」と言う。

[名護市、再び那覇市] 

職場での高良さんの仕事も慌ただしくなってきた。「海洋博」の開かれる前年、昭和50年(1975年)高良さんは名護市への転勤となる。那覇市から約50kmの距離であり、鉄道路線があれば通勤できる距離であるが、家族で移転する。名護市では本土-沖縄間のマイクロウェーブ中継局の保守、OH通信や島伝いのLS(ライトサイト)通信の保守を手がけた。

名護市から運用は続けたが、このころから高良さんはCPU(中央処理装置)に興味をもち、マイクロプロセッサーMC6800を使ってマイクロコンピュ-ターを自作した。SSTVにしろRTTYにしろマイコン制御の時代が見え始めてきていたのも理由であった。現在のように購入したパソコンを操作すれば良いのと異なり、制御するマシン語から勉強する必要があった。

組立てたUT-4の回路

2年後の昭和51年4月、那覇に戻り引き続きマイクロウェーブの保守に就く。また、このころは南大東島、宮古島などとは成層圏に反射させるスキャッター通信を始めておりその保守も手がけた。また、始まった船舶電話基地局、自動車電話基地局も高良さんらの担当となった。この間「海洋博」が開催されたが、結局検討していたアマチュア無線記念局の設置は行われなかった。

[FAX通信] 

沖縄でのFAX通信については、伊佐友一(JR6DJ)さんが「沖縄のアマチュアFAXと画像通信ブーム」と題して記録を残している。FAX通信のためにはファクシミリの入手が最初の課題であった。伊佐さんの記録では昭和56年(1981年)6月に仲嶺さんがJAFA(日本アマチュアファクシミリ協会)の住奥久隆(JA2OL)さんからファクシミリを入手したものの輸送途中のトラブルで故障して運用ができなかったという。

沖縄ではファックスの供給ルートがなく、東京方面からは渡口眞邦(JR6AH)さんが、また、大阪からは伊佐さんが調達の世話をしていたという。現在では一般家庭でもFAXが使われているが、このころはようやく企業に導入が始まったころであった。10月ころには何人かが入手し、高良さんもPanaFax1000を購入、ファクシミリF4を申請する。