[年賀FAX] 

高良さんにFAX通信の免許が下りたのが12月。年末には沖縄の空にFAX通信の電波が飛び交い始めた。伊佐さんによると「1982年の新年には14.145MHzを中心にイラスト写真入の年賀FAXが全国の空を飛び交った」らしい。2月28日には日本の27局が海外とのFAX交信に成功しており、沖縄では片側通信ながら受信に成功している。

高良さんは「FAX通信はRTTYやSSTVのように夢中になれなかった」らしく「絵を書いて送信して遊んだ程度で、ほどなくして止めてしまった」と言う。高良さんの記憶では沖縄では「6、70名程度がFAX通信を手がけた」可能性があり「スペシャライズドコミュニケーション」のなかではもっとも人気を呼んだと言える。

沖縄で開催された「FAXミーティング」

[沖縄のFAXブーム] 

沖縄ではSSTVやRTTYに対して、FAXはハムの間でブームになった。ファクシミリを求め、簡単な改造により使用できる手軽さが運用者を増やしたといえる。ある時、JAFA本部はファクシミリメーカーから「有線接続はしない。無線電送の研究用」という条件で約300台を一括購入し、各地に割り振った。その配分では沖縄には人口比で3台の割り当てであったが、結果的には23台を確保した。いかに、沖縄が「FAX王国」であったかわかる。

高良さんは「沖縄は狭い地域なので、新しい試みが始まるとすぐに伝染する。スペシャライズドコミュニケーションでも同様であったが、とくにFAXの場合は異常であった」と言う。伊佐さんがFAX通信についてとくに詳細な記録を残しているのもうなずける。伊佐さんの記録を参考に沖縄のFAXの歴史の要点だけを記しておく。

昭和57年(1982年)4月、沖縄のアマチュアファクシミリファンの25名が集り、最初のミーティングが行われ、5月には本土復帰10周年記念行事の「伸び行く通信事業展」会場でFAX交信の公開を行った。6月にはJAFAから沖縄支部設立の要請を受けて、13名による設立総会を開催。支部長には伊佐さんが就任し、支部員は1年後には60名になった。

7月には「JAFA沖縄支部ニュース」を発行。その後、9月、11月と隔月で発行が続いている。翌年も支部ミーティングの開催、ニュースの発行が続き、また、ファクシミリ改造の講習会なども行われたが、昭和59年(1984年)末には「第1次FAXブームもだんだんフェードアウトしていった」と、伊佐さんは締めくくっている。

[RARCの解散] 

先に触れたように、高良さんはFAX通信よりもRTTYに力を入れていたが、昭和60年代―平成年代(1985年以降)になると、アマチュア無線とやや疎遠になっていく。その理由の一つが高良さんの職場環境の変化である。平成元年から高良さんは、福岡、東京、福岡、大阪と相次ぐ転勤となる。

高良さんの本土生活を書く前に、少し遡って沖縄のアマチュア無線の復帰前後とその後の動きを綴ってみたい。昭和46年(1971年)は沖縄の免許再開10年目であったが、10周年らしいイベントは行われなかった。翌年に復帰を控えてそちらに力が割かれてしまったものと考えられる。この年の9月には沖縄のアマチュア無線を束ねてきたRARCの解散がささやかれ始めた。

翌年7月のRARCの第13回総会は流れ、別の日に開かれた。その後、昭和48、49年(1973、74年)の総会はかろうじて開かれたが、それを最後にRARCは自然消滅することになる。もっとも、復帰後にはそれに代わるJARL沖縄支部が発足していたことも原因であった。

昭和53年(1978年)9月22日、沖縄のハムにとって楽しいことがあった。米国からフランク(前KR6LJ)さんが沖縄を再訪、その歓迎会が行われた。フランクさんは沖縄駐留時代の1963年当時、米人ハムのクラブOARCの会長を勤めており、再開されたばかりの沖縄のハムの面倒を見てくれた人であった。その年の年末にフランクさんは米国に戻り、送別会が行われた。高良さんは「送別会には出れなかったが、1978年の歓迎会に出席、たくさんの沖縄のハムが集り、同行してきた日本人の奥さんも楽しそうだった」と言う。

フランクさんを迎えての歓迎会。右端フランクさん、

[再開20周年] 

RARCは消滅したが、ODXRCは昭和54年(1979年)に発足10周年記念のDX展を沖縄電子の2階で開催している。また、昭和56年(1981年)にはJARL沖縄支部がアマチュア無線再開20周年の集りを開催した。6月21日、会場は浦添市民会館。原JARL会長、井波九州地方本部長も駆けつけ、盛大なものとなった。

沖縄のアマチュア無線再開20周年記念式後の記念写真

この席上で、沖縄のアマチュア無線の発展に貢献した人たちが「功労者」として表彰された。その記録は表彰理由とともに残されている。ちなみに、表彰された11名は以下の通りである。

平安名常功(JA1BJZ)石橋勇(JR6AB)東伸三(JR6AF)内間伸(JR6AL)富村弘(JR6AM)又吉信篤(JR6AO)久場敏夫(JR6AP)比嘉憲昭(JR6AT)仲地昌京(JR6AY)石垣長昭(JR6IV)高良剋夫(JR6AG)

高良さんの業績は「アマチュア無線の発展に尽力、アマチュア無線許可当時は高校在学中。1.9MHzでJA3XPO(大阪万博記念局)と初交信。SSTV、RTTYで沖縄より初めてQRVするなど新しい技術をいち早く取り入れ指導普及に尽力。JARL評議員、支部長、監査指導委員長を歴任」と紹介されている。