[新しい趣味に取り組む] 

RTTYに熱中した高良さんであるが、やがてアマチュア無線以外のことに取り組み始める。「これまでアマチュア無線にのみ夢中になっていたが、他にもやりたかったことがあるのに気付いた。30代の内に取り組もうと思いついた」からだった。昭和58年(1983年)2月、普通自動2輪の免許を取得し、ホンダのオートバイLA250を購入する。

九州ではバイクをフルに活用、白秋記念館を訪ねた。高良さんが写したバイク

「オートバイは若い時からの憧れであった。1度試験を受けたが不合格となり、そのままになっていた。今、乗らなければという思いに取付かれての受験だった」と言う。スポーツはほとんどしていなかった高良さんは「オートバイを乗りこなすためには足腰を鍛える必要がある」とジョギングを始める。

さらに、しばらくして琉球古典音楽の三線(さんしん)を習い始める。高良さんの奥さんは琉球舞踊の師匠。「家内に内緒で習いに行っていたが、教えてくれる先生が家内と友達でありすぐにわかってしまった」らしいが「未だに三線は上手く弾けない。音楽の才能がない」と笑う。

[マラソンに挑戦] 

音楽関係はうまくならなかったが、ジョギングはマラソンに挑戦するまでに進む。「オートバイに乗るための体力をつけよう」と毎日走っていたが、その姿を職場で長距離を走っていた同僚に見つかり「一緒に走ろう」と誘われる。誘いに応じてその後は一緒に練習するようになる。毎日10kmを走り、1カ月に1度は15kmの走り込みをするようになった。

その結果、マラソン大会への参加を誘われ昭和60年(1985年)12月「第一回NAHAマラソン」に参加、始めて42.195kmのフルマラソンを走る。記録は4時間30分。その後、機会あるごとにフルマラソン、ハーフマラソンに挑戦してきたが「最初のころは完走していたが、徐々に難しくなり、最近では走っていない」と言う。

第1回NAHAマラソン参加の高良さん。ゼッケン1395

昭和61年(1986年)に固定局の定期検査を受け、翌年5月に東京から来られた保戸塚時久(JK1EWY)さんの実施した「FAX講習会」に参加している。この年には「第42回国民体育大会」が「きらめく太陽・ひろがる友情」のキャッチフレーズで沖縄で開かれ、出席した原会長とも再会している。原会長は学生時代から社会人になってしばらくは日本のトップクラスの馬術選手であり、このころには日本馬術連盟の理事長の職にあった。詳しくはこの連載シリーズの「私のアマチュア無線人生」に触れられている。

[ソフト技術者に] 

昭和62年(1988年)工事担任者デジタル1種、アナログ1種の資格を取得し、さらに翌年には第1級無線技術士に合格する。勤めていた職場では無線関連の職場が縮小され、代わってコンピューター関連の仕事が増え始めていた。幸い、高良さんは初歩的なコンピューターを自作し、プログラミング言語の勉強もしていることから、その部門へ転籍の話しが出始めていた。

その最中での1技への挑戦であった。高良さんは昭和41年(1966年)に2技の予備試験のために東京に行き研修を受け、5年後の昭和46年(1971年)に2技の資格を取って以来、1技の資格は取らなかった。無線部門の職場から離れることがはっきりした時「どうしても1技を取り、けじめをつけたかった」と言う。そして、いよいよ高良さんの本土での単身生活が始まる。

[福岡での生活] 

1技の資格を取った年の12月7日、JARL沖縄支部の「全国総会研究委員会」が発足し、その会長を委嘱される。「沖縄でJARL全国総会を開こうではないか」と若手のハムが提案、2年半後の平成3年(1991年)5月に開催が決定した。「研究委員会」は、その大会を成功させるための検討部門であった。ところが翌年1月には熊本へ行くことになり、委員長の役割を仲嶺さんに依頼する。

熊本へは「C言語」の研修を受けるためであった。社内で研修受講者の募集があり数名が参加した。3月までの研修が終了すると4月から福岡市への転勤となった。始めての本土勤務であり「単身赴任ではあったが、沖縄との交通は飛行機が頻繁に飛び便利になっており、また、本土での生活に好奇心をもっていたので、それなりにはりきって行った」と言う。

福岡には無線機、RTTY機器、オートバイを持参、時々CWやRTTYでの交信を楽しむとともに、オートバイに乗り、熊本、佐賀、長崎などの近くや、山口県の萩市までも出かけた。オートバイの虜になってもいた。そのころ、久留米市に高良神社、高良川、高良山があるのを知り、興味をもった。高良さんとは違い「こうら」と呼ばれていたが、どうしても訪ねたくなって出かけている。このころ、福岡県の柳川市にある「北原白秋記念館」を訪ねたことが「どういうわけか印象に残っている」と言う。

福岡では事務、資材調理(調整)などの仕事を経て、ネットワーク技術センタに所属し、社内のシステムを手がけた。九州一円が担当エリアのため出張も多く、遅くまで仕事をする日もあったが「単身の気安さから苦痛ではなかった」と言う。職場ではリストラの嵐が吹き荒れていたが、高良さんはコンピューターソフト技術の知識をもっており、必要な人材となっていた。

福岡でもジョギングを続けていたが、この年、第一回の福岡市民マラソンが行われ、ハーフの部に参加。また、翌年1月に開かれたJARL福岡支部の新年会に出かけ、親しくなっていた井波さんら地元のハムとも会った。福岡生活1年半、東京にある別会社への出向の話が舞い込む。

沖縄国体のため沖縄入りした原会長を囲んで