[東京に転勤] 

日本情報通信株式会社。高良さんが出向した会社である。昭和60年(1985年)にNTTと日本アイ・ビー・エムの折半出資で設立され、ソフト開発やITシステム構築を事業目的としていた。そこへの出向者募集があり高良さんは「迷わず手を挙げた」と言う。コンピューターソフト開発に興味があったことに加え「1度東京で生活してみたかった」からである。

転勤は平成2年(1990年)10月。世田谷区にある寮に入居。「UNIXに興味をもちPC98でMINIXを動かし、TCP/IPインターネットのソフトにも熱中する。次々と新しい世界が開けてくるのが楽しかった」と言う。もちろん、その合間には秋葉原に出かけ、日本最大のアマチュア無線の展示会である「ハムフェア」では、ジャンクの山を見て回わった。また、JARL本部のある展示室を見に行ったりした。

[バイクで佐渡へ] 

東京でも私的に出かける時は移動にはバイクを使った。ある年の夏、3日の予定で佐渡行きに挑戦したことがある。「別に佐渡でなければならない理由はなかった。遠くに出かけたかっただけだった。日本海側の離島で、かつての金山ということだけで決めた」といい、一般国道を通り、最後の日は新潟を夕方の4時に出て、東京に向かった。

夜間は運送トラックがスピードを上げて走っており、いつ接触するかと心配しながら走った。「睡魔に襲われることもあり、ひょっとしたら事故で死ぬかもしれない、と不安になった」と言う。東京近くに来て道に迷ってしまい、1度東京駅まで行き、道を確認した後に寮に辿りついた。12時間走り通し、着いたのは朝4時の強行軍だった。

[JARL沖縄総会] 

平成3年(1991年)5月、沖縄宜野湾市の沖縄コンベンションセンターで沖縄で初めてのJARL総会が開かれた。沖縄でアマチュア無線が再開されて30年の年でもあり、仲嶺実行委員長を中心に沖縄支部の総力を挙げての準備が総会を盛大にし、成功に導いた。総会の愛称は「ゆがふ」。漢字では「世果報」と書き「この世の楽園」を意味する。

沖縄アマチュア無線再開30周年の記念写真

総会への参加会員は1500名。出席した原会長、井波・九州地方本部長はともに、10数年前の「コール問題」を思い出しながらあいさつに立った。原会長は「30年前、沖縄のアマチュア無線発足には大変な苦労があった」とねぎらい、井波本部長は「30年の素晴らしい歴史がある」と発展をたたえた。

高良さんは、この総会の日程に合わせて帰郷して前日の夜に開かれた「前夜祭」さらに総会にも出席した。また「記念局8N6ARLとはどうしても交信したかった」ため、東京から交信している。なお、30周年の集りはその後、6月22日に浦添社会福祉センターでこじんまりと行われたが、高良さんは参加できなかった。

[福岡に戻る] 

東京勤務約3年。高良さんは再び福岡に戻る。「この時、沖縄に帰る話しもあったが、沖縄で同じ仕事をしても楽しくない」と、福岡を希望した。仕事はSE(システムエンジニア)であったが、個人的にはワークステーションのOS「ソラリス」や「シスコ社」のルーターに触れ、興味を持ったという。また、相変わらず休みにバイクでのツーリングに出かけ、九州はもちろん、四国1周、さらには岡山、山口など中国地区へも走った。

沖縄に近くなったことから沖縄那覇で行われる「NAHAマラソン」にもたびたび参加。平成6年(1994年)の第10回、15回、20回と「節目の大会に参加。完走したのは5時間16分の第10回だけ。その後は中間地点通過後にリタイアしてしまった」と言う。ちなみにハーフは3時間もかかるようになっていた。

仕事は九州一円が領域であり、時には鹿児島間を日帰りするほどの厳しさであった。その合間を縫ってのツーリング、マラソン、時にはマイクを持っての交信。体の不調を感ずるようになる。検査を受けると急性肝炎だといわれる。「過労が原因だと思うが福岡市の逓信病院に入院。退院まで2カ月間かかった」という。

ゆがふ総会の開催告知を地元紙に掲載した

[2000年問題] 

平成10年(1998年)4月、沖縄に戻る。沖縄を離れて9年ぶりの故郷である。そして平成11年(1999年)の大晦日から翌年の元旦に賭けて、NTTは緊急事態に備えて多くの社員が泊りこむ事態になった。当時騒がれた「2000年問題」である。結局、何事もなく「ほっとした」と当時を語る。

「2000年問題」は「Y2K問題」とも呼ばれ、当時は世界的に大きな騒ぎとなっていた。おもにコンピューターなどが西暦の下2桁しか認識しないか、対応していないソフトやハードの場合には「西暦2000年」の下2桁の00を「1900年」と認識してしまい大きな誤動作を引き起こす、と見られていた。

このため、早くから関連企業などはソフトの変更などを進めていた。NTTも1年前から関連システムのユーザーに事前のチェックを呼びかけ、問題がありそうなシステムを一つ一つ直してきた。しかし、膨大な作業量のため、漏れがあるのではないかとの心配が付きまとい、実際には2000年を迎えた瞬間までは気が許せなった。泊り込みはそれに備えてのものであった。