クラブツーリズムのツアー"気ままにブルガリア・ルーマニア紀行8日間"に参加しました。出発に先立ちかかりつけのクリニックで健康チェックを受けた際、ドクターに『ずいぶんとマイナーなところに行きますね。』と言われました。折から南ドイツのフリードリヒスハーフェンで開催の"HAM RADIO 2017"に行くと言えば興味を引いたかもしれません。

6月12日

成田空港第1ターミナル南ウィングで手荷物検査・出国検査を済ませて47ゲートへ。トルコ航空(ターキッシュエアラインズ)のエアバスA330-300 TK53便(20時40分)に搭乗して、21時55分離陸、イスタンブール空港へ向かいました。

6月13日

飛行時間12時間45分、03:50イスタンブール空港に到着しました。手荷物検査を済ませて出発階へ移動。07:10トルコ航空A330-300 TK1043便に乗り換えてルーマニアへ向かい、08:15、ブカレスト、アンリ・コアンダ国際空港に到着しました。所要1時間20分。日本との時差7時間、サマータイム(3月~10月)なので6時間引いて日本時間午前2時15分です。バスでターミナルへ移動して入国審査でスタンプを押してもらい、両替所で50ユーロをルーマニアの通貨206 LEI(レイ)に交換しました。

ルーマニアは日本の本州とほぼ同じ面積に人口約1,976万人(2016年)。公用語はルーマニア語で、ハンガリー語、ドイツ語が使われています。外国語は英語、イタリア語、フランス語が通じ、ラテン民族の血筋から陽気で明るくあたたかな国民性と言われています。ルーツは古代ダキイ人(101-106年)が、ローマ皇帝の遠征に破れて帝国の領土となり、「ローマ人の土地(人)」を意味するRomaniaとなり、その状態が今も続いています。

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ルーマニアと周辺国 (※クリックすると画像が拡大します。)

1989年12月22日、共産党本部のテラスで大群衆を前にチャウシェスク大統領が最後の演説を行い、ブーイングに遮られた光景はテレビの映像を通じて世界に配信されました。一方、モントリオールオリンピック(1976年)の体操競技で3個の金メダルを獲得したナディア・コマネチ選手はオリンピックの舞台で初めて10点満点を獲得し、可憐な容姿から「妖精コマネチ」として人気者になりました。

ブカレスト観光

午前10時ごろ車窓から第1次大戦の勝利を記念した凱旋門(1922年)を見て、革命広場でバスを降りると、民主革命の舞台となった広場に面して旧共産党本部があり、道路を挟んだ西側に旧共和国宮殿(チャウシェスク時代の大統領府)がありました。そして共産党本部から南に1km余のところに巨大な国民の館(現在は国際会議やコンサートに使われている)がありました。周りに同時代のアパート群が立ち並び往時が忍ばれます。次いで車窓からルーマニアの41の県を表す噴水を見てレストランへ。昼食はチョルバ(スープ)、チキンとママリガ(トウモロコシの粉で作った付け合せ)でした。

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旧共和国宮殿(現在は国立美術館)

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群衆が埋め尽くした革命広場付近

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巨大な宮殿"国民の館"

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昼食のチキンとママリガ

要塞都市"ブラショフ"

ブカレストからバスで約3時間/170㎞、15時ごろブラショフに到着しました。中世の街並みを残す古都でかつて城壁に囲まれた要塞都市でした。ブラショフの町がザクセン人(ドイツ人移住者)により築かれ、先住のルーマニア人が移り住んだスケイ地区にある、14世紀に建立したルーマニア正教の"聖ニコラエ教会"を見学しました。教会の門を入った左の古い建物は、1760年ルーマニア語で教育が行われた学校で、現在は学校博物館として古書籍などが展示されています。

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14世紀建立の"聖ニコラエ教会"

トランシルヴァニア地方最大の後期ゴシック教会(14世紀後半~15世紀初頭)は1689年ハプスブルグ軍の攻撃に遭い、外壁が黒焦げになったことから"黒の教会"と呼ばれています。内部に4千本のパイプと4つの鍵盤を備えたパイプオルガン(1839年製)あり、現在もミサで使われていると聞きました。町の広場で"旧市庁舎"(現在は歴史博物館)などを見学して17時ごろホテルCubix(キュービックス)に入りました。

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黒の教会

6月14日

8時55分、ホテル出発。所要1時間40分/120kmでシギショアラへ。ブラショフ盆地からボガタの森を山越えしてトランシルヴァニア盆地へ。車窓からザクセン人が作った集落を見て進むとルペア要塞が丘の上に見えました。11時、サスキズ村に到着。バスから降りて大きな塔がシンボルの"サスキズ要塞教会"(世界遺産)を撮影しました。

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優美なサスキズ要塞の時計塔

11時30分、シギショアラに到着。バスを降りて坂を上ると仕立て業者の搭があり、そこをくぐって町の中へ。ドラキュラのモデルとなったワラキア公ヴェラド3世・ツェペシュの生家(黄色い建物、現在はレストランに改装)で昼食(トマトスープとパプリカの肉詰めの)。近くの広場にヴェラド3世の怪奇な銅像がありました。アイルランドの小説家ブラム・ストーカーが書いた小説「吸血鬼ドラキュラ」のモデルになりました。実在のヴェラド3世は吸血鬼ではなく、オスマン帝国に抵抗した英雄と言われ、敵兵を捕らえて串刺しにすることから"串刺し公"の異名があり恐れられていました。

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ヴェラド3世の生家CASA VLAD DRACUL

14時、世界遺産のピエルタンにある要塞教会に到着。屋根付きの階段を上がると教会が見えました。教会の周りに3重の城壁があり、要塞教会として世界遺産に登録されています。15時過ぎピエルタンを出発。17時45分ブラショフ旧市街でフリータイム。夕食は近くのレストランでルーマニア料理をいただきました。19時30分、ホテルはCubixに戻り連泊。

6月15日

ホテルを8時50分出発してブラン城へ。ルーマニアに残る吸血鬼の伝説を聞きながら9時50分、ドラキュラのモデルとなった"ブラン城"に入りました。改修工事で発見された秘密の階段を上り図書室や王の執務室へ、当時の衣装を展示した部屋などを見学しました。13世紀に十字軍が建てた要塞を1920年、マリア王妃が改修して住まいとなったが、その後、城と装飾品はイレアナ王女(カロル2世の妹)に遺産として残され、1948年、王家の国外追放後、国の財産に組み入れられました。現在はルーマニア国王フェルディナンド1世の末裔に返還され博物館として開放されています。

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ドラキュラのモデル ヴェラド3世(串刺し公)

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ドラキュラの居城? "ブラン城"

11時45分ブラン城をあとにして、80kmの山道を進み12時45分シナイアのレストランに到着しました。昼食はサラダとサルマーレ(ロールキャベツ)でした。

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大きなパンの中に入ったサルマーレ(ロールキャベツ)

14時、バスを降りて坂を下り"ペレシュ城"へ。1875年、カロル1世がルーマニア王室の夏の離宮として8年の歳月をかけて建てた美しい宮殿です。部屋数は160、カロル1世が集めた絵画、彫刻など美術品、陶磁器、中世の武器などが収集品として飾られていました。ベネチアのムラーノガラスのシャンデリアや壁に大きな鏡を貼り付けた贅を尽くした作りでした。また、ルーマニアで初めてのサイレントムービーを上映した劇場にクリムトの壁画が描かれていました。現地のガイドから聞いた話として、チャウシェスク大統領が自ら使うために改装を計画した時、宮殿を守って来た人たちが「健康被害」を理由に、改装を断念させて文化財を守ったという逸話が記憶に残りました。

グスタフ・クリムト(Gustav Klimt, 1862年7月14日 - 1918年2月6日)は、帝政オーストリアの画家。

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ルーマニア王室の夏の離宮ペレシュ城

15時30分、"シナイア僧院"に移動しました。敷地内に19世紀に国王が作らせた教会と小さめの17世紀の教会がありました。17世紀の教会は天井と壁面がフレスコ画で埋めつくされていました。19世紀の教会ではミサが始まったので静かに見学して教会をあとにしました。18時過ぎにホテル ラマダパルクホテルに到着。夕食はラマダパルクホテルでクリームスープとシュニッツェル(カツレツ)でした。

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シナイア僧院の17世紀の教会

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シナイア僧院のフレスコ画

ホテルの駐車場でルーフトップにホイップアンテナを付けた車を見つけました。車内をのぞくと"Storm"と読める無線機が見えたので、さらに観察すると前面パネルにつまみが二つ、チャンネルは二桁の数字、アマチュア無線機というよりCB機と推測して車から離れました。

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車のルーフにモービルホイップを発見

6月16日

9時、ホテルを出発してブカレストの町を通って南下。10時半ごろ国境の町ジュルジュに入り、ドナウ川にかかる友好記念橋を渡り、11時に国境を越えてブルガリア共和国へ入国しました。この後、ルーマニア・ブルガリア紀行(その2)へと続きます。