2018年4月10日~17日の8日間、バルト3国を周遊しました。バルト海に面したリトアニア(LY)、ラトビア(YL)、エストニア(ES)の3カ国を巡る旅でした。あのバルチック艦隊がバルト海のサンクトペテルブルグの港湾から出撃した歴史を思い返すと、少なからず日本に関係があることが分かります。また、バルト三国は地政学的にドイツ、スウェーデン、フィンランド、ポーランド、ロシアなどの強国に囲まれていることから、それらの国々に占領・併合された歴史があります。ここでバルト三国のそれぞれのプリフィックスが、過去、どのように変わって行ったか振り返ってみたいと思います。

バルト三国のプリフィックス変遷

1937年DXCCカントリーリスト(QST 1937年1月号)に3カ国のプリフィックスLY、YL、ESがみられます。1922年12月30日ソビエト連邦が成立、1940年8月3日、ソ連によるリトアニア併合、5日ラトビア、6日エストニアを併合しました。1941~1944年ナチスドイツによる占領、1944年~1991年ソ連による再占領、1991年ソビエト・クーデターの余波によりバルト三国は独立を回復し、プリフィックスが元に戻りました。

カントリー 1937年 1940年~ 1991年
リトアニア LY UP、RP LY
ラトビア YL UQ、RQ YL
エストニア ES UR、RR ES

一方ではソ連による占領と併合から、ユダヤ人がソビエトによって他のエストニア人とともにシベリアに国外追放されたほか、ドイツ占領下ではナチの占領期間に約1万人と推定されるユダヤ人がエストニアで犠牲になるなど、ラトビア、リトアニアでも多くの人命が奪われました。また、ポーランドからリトアニアに逃れてきたユダヤ人にリトアニアのカウナス日本領事館、領事代理の杉原千畝氏(すぎはら・ちうね)が「命のビザ」を発給して6,000人の命を救った経緯は『杉原千畝 スギハラチウネ』(2015年、主演:唐沢寿明)の映画等でよく知られているところです。

photo

バルト三国の位置を示すヨーロッパ地図。(※クリックすると画像が拡大します。)

リトアニアへ

2018年[4月10日]09:50、成田空港からFINAIR072便(エアバス A350-900)にてフィンランドのヘルシンキ空港を目指しました。真新しい機材のNordic Skyエンターテインメントシステムの大画面による映画鑑賞が楽しめましたし、フライト情報も飽きさせない工夫に満ちて退屈することがありません。

所要約10時間、ヘルシンキ空港へ13:50着、時差はマイナス7時間、リトアニアの首都ヴィリニュスへ、FINAIRのAY-1105 便(エンブラエルERJ-190)に16:20搭乗、所要1時間15分、17:35、ヴィリニュス空港に到着しました。どこか地方空港のような寂しげな光景が飛び込んできました。駐機の機材はほぼFINAIRのERJ-190ばかり、大型の旅客機が見当たりません。専用バスでRADISSON BLU ROYAL ASTORIJAホテルへ。

photo

リトアニアと周辺国の地図(※クリックすると画像が拡大します。)

ヴィリニュスの世界遺産

[4月11日]09:00、専用バスにてヴィリニュス市内観光へ。

聖ペテロ&パウロ教会:ヴィリニュスを代表する建築、1668年から7年かけて造られたが、内装に30年かけたといわれる漆喰彫刻で埋められた教会内部が大きな特徴です。

photo

聖ペテロ&パウロ教会

聖アンナ教会:15世紀末に建てられた後期ゴシック様式の教会。建設に33種類ものレンガが使われているフランボワイアン(火焔式)ゴシック建築の傑作といわれ、500年以上を経て当時の姿をとどめています。

photo

後期ゴシック様式の聖アンナ教会

夜明けの門:九つの城門の内、一つだけ残ったのが夜明けの門です。旧市街から門に向かって手前の左側の入り口から階段を上ると、そこに礼拝所があり、ここの聖母イコンは、奇跡を起こす力があると信じられています。門の上の方にリトアニアの紋章が見られるが、ソ連時代に唯一見逃されていた紋章だといいます。

photo

城外から見た夜明けの門

大聖堂:ヴィリニュスのシンボル的な主教教会です。高い鐘楼とギリシャ神殿を思わせる巨大な教会の地下に墓室があり、絶世の美女といわれたバルボラ・ラドヴィライテ妃(1522~1551)をはじめ王家の棺が埋葬されています。

photo

ヴィリニュスのシンボルとされる大聖堂(主教教会)

トラカイ城:ヴィリニュスから約30km、バスで40分、トラカイにやって来ました。リトアニアの首都がヴィリニュスに移る以前の首都だったところです。赤レンガの古城が水面に映える美しい景観の観光地で、大小30以上の湖と森に囲まれた自然公園として保護されています。トラカイ城は14世紀後半にチュートン騎士団の侵略を防ぎ祭事などを行うため、キュストゥティス公とヴィタウタス大公によって建設されました。大公の死後、権力がポーランド側に移ると城は荒れ、廃墟となりましたが、1961年から復元工事が始められ1987年にほぼ15世紀当時の姿を取り戻したということです。

この日からRADISSON BLU ROYAL ASTORIJAホテルへ連泊しました。

※ 中世ヨーロッパの三大騎士修道会の1つでドイツ騎士団の別名。

photo

赤レンガの古城が水面に映えるトラカイ城

[4月12日]08:30、専用バスにてカウナスへ。所要100km/約1時間30分。はじめに、日本のシンドラーと呼ばれた杉原千畝ゆかりの旧日本領事館へ入場しました。多くのユダヤ難民にビザを発給して命を救った領事代理の杉原千畝氏ゆかりの旧日本領事館(現在Sugihara House)を訪ねました。映画「杉原千畝」で領事館の塀越しに押し寄せる難民シーンを思い出しながら、忠実に再現された執務室など5つの展示室を見て回りました。

※ オスカー・シンドラー(Oskar Schindler)ドイツ人の実業家。第二次世界大戦中、ドイツにより強制収容所に収容されていたユダヤ人のうち、自身の工場で雇用していた1,200人を虐殺から救った。

1600人のユダヤ人にビザを発給し6000人以上の命を救った杉原千畝リトアニア領事代理は、本国からの退去命令により、この町を離れる直前までビザの発給を続けました。ユダヤ人を救ってから70数年、今やその親族や子孫の数は25万人以上にものぼるということです。

photo

旧日本領事館(現在Sugihara House)の入り口。多くのユダヤ難民が押し寄せた「希望の門」

photo

領事執務室にて領事代理の杉原千畝氏。(杉原記念館にて撮影)

photo

領事代理・杉原千畝の署名入りの査証(杉原記念館にて撮影)

ベルク―ナスの家:15世紀に建てられたゴシック様式の傑作といわれ、この場所に雷神ベルク―ナスを祀る神殿があったところからベルクーナスの家と呼ばれる。19世紀の修築の際に30センチ大のブロンズ像が見つかり、これがベルクーナスという説とタタールによってもたらされたインドの神像という説とで論争が起きたが、その後、その像は失われベルクーナスの家の名称だけが残りました。

photo

ベルク―ナスの家

カウナス城:13世紀にドイツ騎士団の侵略を防ぐために作られた国境の城。1363年、騎士団に占領されて破壊されたが、15世紀にヴィタウス大公によって再建されました。もともと台形の城壁に4つの搭がありましたが、今は城壁の一部が残り城郭の名残を留めています。

photo

城郭の一部しか残っていないカウナス城

十字架の丘

昼食後、ラトビアの首都リガへ向けて専用バスにて出発。所要約290km/約4時間30分、途中、十字架で埋め尽くされている「十字架の丘」を見学しました。シャウレイの北東約12kmのところにある大小無数の十字架が立ち並ぶ丘を見学しました。十字架の数はリトアニアの生者の数より多いと言われるが、亡くなった人が埋葬されているわけでありません。

1831年、ロシアに対する蜂起の後、処刑や流刑された人々の鎮魂のために十字架を建てました。しかし、ソ連軍はこの丘を立ち入り禁止としKGBと軍はブルドーザを使って十字架をなぎ倒し焼き払ったが、人々はそのつど夜陰に紛れて新たな十字架を建てたそうです。近年は十字架建立が以前に増して盛んになり、アメリカやオーストラリアへ移住した移民の人々が彼の地から運んだ十字架を残していくと聞きました。入り口に十字架を売る店が数軒つらなり、店頭に大小の十字架が並ぶ光景から抑圧を受けた民族の悲しみが伝わってきます。

photo

無数の十字架が立ち並ぶ"十字架の丘"(※クリックすると画像が拡大します。)

十字架の丘を見学後、専用バスにてリトアニアの国境を通過してラトビアの首都リガへ。ラディソン・ブル・ダウガヴァ・ホテル(RADISSON BLU DAUGAVA)に着後、2連泊しました。この続きは「ラトビア・エストニア編」へと続きます。

参考資料:「バルト三国/ポーランド」クラブツーリズム(株) 「杉原千畝本」千畝ブリッジプロジェクト 地球の歩き方 2017~2018「バルトの国々」エストニア ラトヴィア リトアニア (株)ダイヤモンド社