昭和2年(1927年)9月10日、わが国は初のアマチュア無線(当時は私設実験局)が免許された時、周波数は申請に基づくもので38m(7.9MHz)が中心であった。翌年1月1日に逓信省はアマチュア無線に割り当てる周波数を決めた。1.75、3.5、7、14、28、56の6バンドであり、いずれも倍数となっている。アマチュア周波数で発生するスプリアス(不要輻射)は、アマチュア周波数で収める、という原則が守られたためである。

その後、わが国のハムのほとんどが7MHz帯での交信を続け、1部が14MHz帯に取り組んだ。一方、欧米では28MHz帯にチャレンジするハムが増え始めていた。昭和5年(1930年)梶井謙一(J3CC)さんは、無線雑誌「ラヂオの日本」10月号で、28MHz帯の使用を呼びかけている。ハム局が70局に達し、7MHz帯は混んでいる。それに比較して28MHz帯は2局のみで寂しい、と訴え「開拓は難事中の難事である。しかし、喜びにつけ、苦しみにつけ開拓者の感興はまた格別である」と、記している。

[56MHzへの挑戦]

ましてや56MHzに関心をもつハムは極めて少なかった。宮井宗一郎(J3DE)さんが発行した昭和7年(1932年)10月のコールサインブックによると、その時点のハムのうち、56MHzの申請者は16名で約10%。このうち関西(J3)エリアが9名と過半数を占めていた。もちろん、このうち実際に56MHzに取り組んだのはほんの1部のハムであった。

56MHzへの挑戦が少なかったのは、VHFへの関心が少なかったことに加えて、56MHzの送受信用真空管の入手が難しかったことも理由であった。その後、主に米国のメーカーから適応した真空管が開発されるが、国産されなかったことや、輸入品が高価であったことから一般のハムには手が出せなかったといわれている。

昭和7年(1932年)4月1日、大阪市は電灯事業市営10周年を記念して、市内・東区にあった白木屋百貨店で「電気科学博覧会」を開催した。JARL関西支部はこの行事に協力し、アマチュア無線送信機、受信機を出品した。そのブースに武田正信(J3DC)さん自作の56MHz送信機が展示された。この送信機を使い、レッヘルワイヤーによる波長測定の実験が行われた。豆ランプが移動するごとに点灯する実演は「大好評だった」と、実験に当たった山本信一(J3CS)さんは語っている。

昭和7年4月に大阪で行われた「JARL」の公開実験。左が中村季雄(J3CT)さん、右が山本信一(J3CS)さん

[モービルのはしり]

昭和10年(1935年)、大阪の櫻井一郎(J3FZ)は、大阪と滋賀県・長浜間の56MHz片道送信に成功している。車を所有していた櫻井さんは、自宅にタイマーと「自動電鍵」を設備し、時間になると送り続けられるSW信号を受信しながら車を走らせた。タイマーを使ったのは、当時はアマチュア無線は2時間おきに2時間交信が許されていたためである。この時に使用した送信管はアイマック社製の35Tであり、アンテナはJ型を車に取り付けたという。

一方通行ながら櫻井さんは約100kmの送信を行なったことになる。この時のことは、櫻井さんから直接に話を聞いたことのある島伊三治(JA3AA)さんを主役にした「関西のハム達。島さんとその歴史」にやや詳しく触れている。その当時、櫻井さんは貿易商を営んでおり、豊かな生活をしていた。あるいはわが国におけるモービル第1号といえる。

[佐渡と新潟を56MHz]

昭和12年、新潟県庁警察部保安課に勤務していた小田壮六(J6CX)さんは、新潟と佐渡間約60kmの交信に成功した。その時の送受信機は後にJARLに寄贈された。小田さんは新潟からは50MHz、佐渡の白瀬村からは37.5MHzのクロスバンドの県警通信施設を完成させてもいる。この時には東北帝大の宇田新太郎教授が技術援助のため、現地を訪れている。

小田さんは後に、パトカーや水難救助艇に無線機を積み込み、県庁との通信網を構築するなど活躍。その後、新潟工業学校の嘱託、陸軍技師となり外地勤務、戦後県警に復職した後、北海道、東北、東京都、関東管区警察と異動、通信技術の指導、教育を行った。また、福井工業大学の講師となるなどめまぐるしい人生を送られた。

新潟で活躍した小田さん(左)昭和53年にハム仲間と

[東京都内と逗子間約50km]

昭和13年(1938年)森村喬(J2KJ)さんと、渡辺泰一(J2JK)さんが苦労して、交信に成功している。2人は東京工大の同級生であり、56MHzでの交信をやろうと決めて、取り組み始める。この当時になると、東京都内には56MHzの波を出しているハムがおり、都内では交信が成り立っていた。

渡辺さんによると「交信は見通し距離でなくとも平坦地では可能で、E層によって1000kmや2000kmも可能、ただし、遠距離の場合は水晶制御でなければならない、などがわかっていた」という。しかし、逗子までは低いながらも山もある。2人は「やりがいのある挑戦」と考え、ともに送受信機を自作する。

森村さんが56MHzのために自作したコンバーター

2人は毎日時間を決めて、送信するが約一カ月かかっても受信できない。「周波数がズレているのではないか」とお互いの波長計を交換したりした。森村さんは他の56MHz局を受信して周波数を確認できたが、渡辺さんは不安のまま。「受信機を東京にもって行こか、と思っている時に、森村さんの信号を捕らえた。

その後、すぐに森村さんも私の信号をキャッチした」と、渡辺さんは書いている。森村さんについては、別の連載「あるアマチュアOTの人生」で触れているが、今年(2004年)の2月25日になくなられた。ここに登場したその他の56MHzへの挑戦者は今は全員が故人となっている。