[56MHzポータブル機]

戦前、56MHzのポータブル機を作ったハムがいた。柴田俊生(J2OS)さんである。開戦直前の昭和16年(1941年)の秋だったというが、A電源、B電源ともに乾電池を使い、76-41管のトランシーバーを作った。「モーターボートクラブとタイアップ、舟と舟、舟と陸で実用移動業務の初体験をした」と、戦後にモービルハムの機関誌に寄稿している。

調べてみると、柴田さんはこの年の2月に免許を失効しており、年月は記憶ちがいと思われる。また、戦前はアマチュア無線にはポータブル機は許可されていなかった。ただし、柴田さんが戦前56MHzの自作では知られているハムであることは確かである。この当時、112Aプッシュプルの56MHz機も作り、送信機は現在ではJARLに保管されている。

柴田さんの自作した56MHz送信機--- アマチュア無線のあゆみより

戦前のVHF波、56MHzの記録に残されている活動について触れた。このほかにも56MHzに挑戦したハムも少なくなかったものと思われる。この当時、米国ではすでに112MHz帯、224MHz帯の免許が認められていた。56MHzの活用が活発になる前に、日本は太平洋戦争に巻き込まれていく。

[戦時体制下のJARL]

昭和15年(1940年)秋ごろから、アマチュア無線の免許申請や、既免許者の延伸願が認められなくなっていく。1部の軍に協力する産業、任務に従事するハムを除いて延伸願が受理されずに「失効」となるハムが続々と生まれた。しかし、一方では軍に協力する「国防無線隊」が生まれ、すでに昭和7年(1932年)ころから防空演習や防空訓練に参加するようになっていた。

JARLはこのような規制強化に対応して、アマチュア無線の進む方向を模索、逓信省無線課、陸軍省交通局と度重なる打ち合わせを行い「軍の補助通信」を行なうことに決定。(1)軍の要請があった場合は司令官の指揮下に入る(2)逓信省は有効期限延伸願を提出すれば、通知は出さないが運用を認める、ということが決まった。

この時にJARLは逓信省からの要請に応えて6項目の希望を提出している。112MHz、224MHzを許可し、周波数偏差(バンド)を認め、出力300Wを許可、通信時間制限の撤廃、移動局の許可などを求めた。その結果については触れているものがないが、その後の経過をみると認められなかったといえる。

[国防無線隊]

軍に協力した組織としては「国防無線隊」の名称の他に「愛国無線隊」「愛国無線通信隊」「防空無線隊」「無線義勇団」などがあり、地区によって協力する目的によって異なっていたようだ。当初はJARLの組織あるいは会員(盟員)の集まりとして結成されていたが、昭和16年(1941年)12月の太平洋戦争開戦前後のころには、個々のハムの集まりのような形となっていった。応召されたり、軍需産業に勤務するハムが増加、組織的な活動ができなくなっていたためである。

国防無線隊、あるいは防空対策用に使用される通信機の製作を依頼されたハムもいた。陸軍、海軍の通信機は通信機メーカーや電機メーカーが生産したが、需要を満たす生産ができなかったためか、ハムの多くが使用していた通信機を無料で提供させられたり、有料で買い上げられた。なかには貸与の形で借用書と交換に提供したハムもいた。もちろん、戦後は混乱によって、貸与品が返された記録はない。

森村さんへの東京国防無線隊員からの令状--- アマチュア無線のあゆみより

[56MHz通信機の製作]

ハムが依頼され、主に軍の補助業務に使用された通信機は、56MHzが中心であった。近距離の通信を目的にしたためと思われる。国防無線隊が自発的に製作した例は、昭和12年(1937年)の夏に56MHz送受信機各2台を組立てたグループである。戦前のベテランハムの仲間達である。指導したのは梶井謙一(J3CC)さん、多田正信(J1DP)さんの2人。場所は鎌倉の中川国之助(J1EE)さんの家の2階。

東京湾上の船と陸上とを無線で結ぶのが目的であり、大河内正陽(J1FP)さん、渡辺泰一(J1FV)さん、森村喬(J2KJ)さん、小川薫一(J2LO)さん、安川七郎(J2HR)さんが組立てた。渡辺さんは戦後になってそのもようを「通話試験は鎌倉市内で行い、次いで、中川氏宅と海岸、鎌倉山間で連絡に成功。見通しのきかぬ所でも届く」ことがわかった、と思い出を記している。

さらに渡辺さんの思い出は続く「夏の終わりごろにはセットを東京朝日新聞に持ち込み、屋上にアンテナを張り、別の一隊はランチに送受信機を積み込み、お台場沖まで幾度か通話実験を繰り返した。あまり沖では聞こえないこと、超再生だとある程度以下に電界強度が落ちると、急に通話困難になること、橋の下では感度が落ちることなどがわかった」と。

ランチ上で通信実験をする隊員。左から大河内さん、渡辺さん--- アマチュア無線のあゆみより

[軍司令部からの依頼]

現JARL会長である原昌三(JA1AN)さんらは、東京・渋谷区恵比寿にあった山田電機の部屋を借りて56MHz機を製作した。軍司令部からの要請であった。米国は昭和16年(1941年)の真珠湾攻撃の報復として東京など主要都市の爆撃を計画、翌17年(1942年)4月18日、犬吠崎沖約1200kmまで進めた空母ホーネットから中型爆撃機B25、16機を発進させた。

爆撃機は東京、名古屋、神戸などを空襲し、中国大陸に去った。実はホーネットは途中で日本の哨戒艇に索敵機と艦隊を発見されてしまう。このため、計画地点より約600kmも離れた地点からB25を発進させざるをえなかった。哨戒艇は艦隊発見の報告を、防衛司令部に通信した。ところが、司令部は航続距離の長い飛行機が空母に積みこまれるはずがない、と判断し空襲は翌日と判断、空襲警報が出されたのは空襲が行われた後であった。